第205話:『鉄の棺桶は嵐を行く』
帝国最新鋭の高速蒸気揚陸艦。その鋼の腹の中は、地獄の様相を呈していた。
轟音。船体が巨大な波に乗り上げては叩きつけられるたび、内臓がせり上がるような暴力的な衝撃がすべてを揺るがす。床がきしみ、壁が呻き、乗組員の悲鳴すらも荒れ狂う海原の咆哮にかき消されていく。
その阿鼻叫喚の只中で、聖女マリアは青白い顔でソファにぐったりと身を沈めていた。
完璧に結い上げられていたはずの金髪は乱れ、陶器のように白い額に冷たい汗が滲む。聖女の威厳も、策略家の顔も、今はただの船酔いの前では無力だった。
「……うっぷ……二度と乗るものですか、こんな鉄の棺桶……」
絞り出すような呻きが、揺れる船室に虚しく響く。
その時、カチャリ、と背後で澄んだ音がした。
振り返る気力もない。だがそこには、完璧なタイミングで完璧な温度のハーブティーを携えた執事が、影そのものが人の形をとったかのように佇んでいた。リリィだ。船の揺れなど存在しないかのように、その立ち姿は微塵も揺るがない。
「――お嬢様。ミントと生姜をブレンドした、船酔いに効くお茶でございます」
声には、昨夜の快活なシスターの面影はなかった。温度のない、磨き上げられた水晶のような声。
マリアは震える手でカップを受け取り、立ち上る湯気の向こうから、値踏みするようにリリィを見据えた。
「……あなた、平気なのね。この揺れ」
「嗜みでございますので」
完璧な執事の仮面は崩れない。
その動じない態度に、マリアは苛立ちと感嘆が入り混じった息を吐いた。
「面白いことをしてくれたじゃない、リリィ」
「何のことでしょう、お嬢様」
「とぼけないで。あなたが私に渡した、あのリストのことよ」
マリアはカップを置き、その美しい指先でテーブルを軽く叩く。コツ、という乾いた音が船の轟音の中でもはっきりと響いた。
「あの者たち、アルビオンの息がかかったヴェネツィアの古い埃でしょう? あなたがこの街を去った後、余計な騒ぎを起こしかねない者たち……それをわざわざ私に差し出すとは、どういう魂胆かしら」
声は甘いが、その裏には鋭い刃が隠されている。
だが、リリィは動じない。静かに、しかし澱みなく答えた。
「お嬢様のお手を煩わせる塵芥は、予め取り除いておくのが執事の務めです」
「あら、親切なこと」
「それに」と、リリィは続ける。声はどこまでも平坦だ。「彼らが持つ旧体制派との繋がり、そしてアルビオン本国との細いパイプ。その情報網は、使い方次第でこれから始まる『新しい遊戯』において、非常に有用な手駒となり得ると判断いたしました」
あまりに冷徹で的確な分析。自らの過去の繋がりさえも「駒」として差し出す、そのしたたかさ。
マリアはたまらないといった様子で、喉の奥でくすくすと笑った。
「本当に、食えない女ね、あなたは」
「恐縮に存じます」
「本当は、自分の過去を知る邪魔者を潰しておきたかっただけじゃないの?」
マリアの指摘に、リリィは初めて、その硝子人形のような顔に微かな笑みを浮かべた。
「……さて、どうでしょう」
「まあ、いいわ」
マリアはソファに深く身を沈め直すと、悪戯っぽく、しかし女王の威厳を込めてリリィを見上げた。
「あなたの有用さ、わたくしがたっぷりと活用して差し上げる。……だから、せいぜいお仕えなさい。私の、有能な執事としてね」
「――はい。喜んで、協力させていただきますわ。お嬢様」
リリィは完璧な礼と共に、深く、深く頭を垂れた。
その俯いた顔にどんな表情が浮かんでいたのか。それを知るのは、揺れるランプの光だけだった。
◇◆◇
同じ頃、別の船室。
私はヴォルフラムさんにがっしりと、しかし優しく抱きかかえられていた。
「リナ様、ご安心ください! このヴォルフラムがいる限り、この程度の揺れ、微塵も感じさせはしません!」
「あ、ありがとう、ヴォルフラムさん……でも、ちょっと苦しい……」
彼女はまさに人間免震装置だ。船の揺れに合わせ膝と腰を巧みに使い、私への衝撃を完璧に殺している。その超人的な体幹と忠誠心には頭が下がるが、少し過保護すぎる気もする。
私たちの横を、セラさんが涼しい顔で通り過ぎた。
「あらあら。……リナ様、ハヤト殿がまた甲板で騒いでおりますが」
窓の外に目をやれば、案の定、ハヤトさんが船で最も高いマストの頂点に仁王立ちしていた。吹き荒れる強風に黒いマントをはためかせ、まるで嵐の王のように眼下の荒波を見下ろしている。
「うおおお! この揺れ! この風! これぞ我が魂の故郷よ!」
ゲッコーからの報告で、リリィの正体に関する推測も、ハヤトが彼女に釘を刺したことも聞いている。
私はヴォルフラムさんの腕の中から、深いため息をついた。
「……リリィさんの話を聞くとき、ああいう方がいた方が楽かもしれませんね」
「え?」
「ハヤトさんは、思うがままに動いてくだされば、それで良いのではないでしょうか。……とっても、楽しそうですし」
私の言葉に、セラさんは「ふふっ」と微笑んだ。
この船旅が、一筋縄ではいかないことを改めて覚悟する。
そして、船倉の最も奥深く。
鉄格子のはめられた一室で、一人の男が床に座り込んでいた。デニウス・ラウル。
彼は船全体を揺るがす振動にも眉一つ動かさず、ただ目を閉じている。その顔には諦観と、まだ捨てきれぬ故郷への想いが、深い影となって刻まれていた。