表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
211/218

第205話:『鉄の棺桶は嵐を行く』


帝国最新鋭の高速蒸気揚陸艦(スレイプニル)。その鋼の腹の中は、地獄の様相を呈していた。

轟音。船体が巨大な波に乗り上げては叩きつけられるたび、内臓がせり上がるような暴力的な衝撃がすべてを揺るがす。床がきしみ、壁が呻き、乗組員の悲鳴すらも荒れ狂う海原の咆哮にかき消されていく。


その阿鼻叫喚の只中で、聖女マリアは青白い顔でソファにぐったりと身を沈めていた。

完璧に結い上げられていたはずの金髪は乱れ、陶器のように白い額に冷たい汗が滲む。聖女の威厳も、策略家の顔も、今はただの船酔いの前では無力だった。


「……うっぷ……二度と乗るものですか、こんな鉄の棺桶……」


絞り出すような呻きが、揺れる船室に虚しく響く。

その時、カチャリ、と背後で澄んだ音がした。

振り返る気力もない。だがそこには、完璧なタイミングで完璧な温度のハーブティーを携えた執事が、影そのものが人の形をとったかのように佇んでいた。リリィだ。船の揺れなど存在しないかのように、その立ち姿は微塵も揺るがない。


「――お嬢様。ミントと生姜をブレンドした、船酔いに効くお茶でございます」


声には、昨夜の快活なシスターの面影はなかった。温度のない、磨き上げられた水晶のような声。

マリアは震える手でカップを受け取り、立ち上る湯気の向こうから、値踏みするようにリリィを見据えた。


「……あなた、平気なのね。この揺れ」

「嗜みでございますので」


完璧な執事の仮面は崩れない。

その動じない態度に、マリアは苛立ちと感嘆が入り混じった息を吐いた。

「面白いことをしてくれたじゃない、リリィ」

「何のことでしょう、お嬢様」

「とぼけないで。あなたが私に渡した、あのリストのことよ」


マリアはカップを置き、その美しい指先でテーブルを軽く叩く。コツ、という乾いた音が船の轟音の中でもはっきりと響いた。

「あの者たち、アルビオンの息がかかったヴェネツィアの古い埃でしょう? あなたがこの街を去った後、余計な騒ぎを起こしかねない者たち……それをわざわざ私に差し出すとは、どういう魂胆かしら」

声は甘いが、その裏には鋭い刃が隠されている。


だが、リリィは動じない。静かに、しかし澱みなく答えた。

「お嬢様のお手を煩わせる塵芥は、予め取り除いておくのが執事の務めです」

「あら、親切なこと」

「それに」と、リリィは続ける。声はどこまでも平坦だ。「彼らが持つ旧体制派との繋がり、そしてアルビオン本国との細いパイプ。その情報網は、使い方次第でこれから始まる『新しい遊戯』において、非常に有用な手駒となり得ると判断いたしました」


あまりに冷徹で的確な分析。自らの過去の繋がりさえも「駒」として差し出す、そのしたたかさ。

マリアはたまらないといった様子で、喉の奥でくすくすと笑った。


「本当に、食えない女ね、あなたは」

「恐縮に存じます」

「本当は、自分の過去を知る邪魔者を潰しておきたかっただけじゃないの?」

マリアの指摘に、リリィは初めて、その硝子人形のような顔に微かな笑みを浮かべた。

「……さて、どうでしょう」


「まあ、いいわ」

マリアはソファに深く身を沈め直すと、悪戯っぽく、しかし女王の威厳を込めてリリィを見上げた。

「あなたの有用さ、わたくしがたっぷりと活用して差し上げる。……だから、せいぜいお仕えなさい。私の、有能な執事としてね」


「――はい。喜んで、協力させていただきますわ。お嬢様」


リリィは完璧な礼と共に、深く、深く頭を垂れた。

その俯いた顔にどんな表情が浮かんでいたのか。それを知るのは、揺れるランプの光だけだった。


◇◆◇


同じ頃、別の船室。

私はヴォルフラムさんにがっしりと、しかし優しく抱きかかえられていた。

「リナ様、ご安心ください! このヴォルフラムがいる限り、この程度の揺れ、微塵も感じさせはしません!」

「あ、ありがとう、ヴォルフラムさん……でも、ちょっと苦しい……」

彼女はまさに人間免震装置だ。船の揺れに合わせ膝と腰を巧みに使い、私への衝撃を完璧に殺している。その超人的な体幹と忠誠心には頭が下がるが、少し過保護すぎる気もする。


私たちの横を、セラさんが涼しい顔で通り過ぎた。

「あらあら。……リナ様、ハヤト殿がまた甲板で騒いでおりますが」


窓の外に目をやれば、案の定、ハヤトさんが船で最も高いマストの頂点に仁王立ちしていた。吹き荒れる強風に黒いマントをはためかせ、まるで嵐の王のように眼下の荒波を見下ろしている。

「うおおお! この揺れ! この風! これぞ我が魂の故郷よ!」


ゲッコーからの報告で、リリィの正体に関する推測も、ハヤトが彼女に釘を刺したことも聞いている。

私はヴォルフラムさんの腕の中から、深いため息をついた。


「……リリィさんの話を聞くとき、ああいう方がいた方が楽かもしれませんね」

「え?」

「ハヤトさんは、思うがままに動いてくだされば、それで良いのではないでしょうか。……とっても、楽しそうですし」


私の言葉に、セラさんは「ふふっ」と微笑んだ。

この船旅が、一筋縄ではいかないことを改めて覚悟する。


そして、船倉の最も奥深く。

鉄格子のはめられた一室で、一人の男が床に座り込んでいた。デニウス・ラウル。

彼は船全体を揺るがす振動にも眉一つ動かさず、ただ目を閉じている。その顔には諦観と、まだ捨てきれぬ故郷への想いが、深い影となって刻まれていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
 輝夜さん、こんにちは。 「ようこそ、最前線の地獄(職場)へ。 私、リナ8歳です 第205話:『鉄の棺桶は嵐を行く』」拝読致しました。  船酔いのマリア。こんなに酷いとは、思わなかった!  そんな中…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ