第19話:『張り子の虎と悲運の狼』-
皇妃陛下という予想外にして最強の後ろ盾を得てからというもの、帝都での日々は嘘のように穏やかだった。
豪奢な車椅子が絹の衣ずれのような音を立てて王宮の廊下を進めば、かつて嫉妬と侮蔑の視線を投げつけてきた貴族たちが、今は蜘蛛の子を散らすように道を譲り、深く頭を垂れる。皇妃陛下のお気に入り――その事実は、私が想像した以上に絶大な効力を持っていた。
表では『謎の軍師』としてグレイグと共に軍務をこなし、裏ではリナとして皇妃陛下のお茶会に招かれる。銀の匙が触れ合う澄んだ音を聞きながら、口の中でとろける甘いケーキを味わう。そんな二重生活は、私の心を静かに満たしていた。
(このまま、時が止まればいいのに)
そんな淡い願いは、東部戦線から飛来した一羽の軍鳩によって、ガラス細工のように砕け散った。
呼び出されたグレイグの執務室は、インクと古い羊皮紙の匂いに満ちていた。そこにいた私とセラが見つめる先、机に広げられた一枚の報告書。前線に残した副官からの、インクが滲むほど力強く書かれた短い文面が、無言の叫びを上げていた。
『――王国軍、動ク。想定ヨリ早シ。敵主力、国境ニ集結中。規模、前回ヲ上回ル』
「……馬鹿な」
グレイグが、歯を噛みしめるように低く唸る。
「あれだけの損害を与えたのだ。軍の再編には、最低でもあと一月はかかると踏んでいたが……」
「何か、我々が予期せぬ要因があったとしか考えられません」
セラも険しい表情で、壁に掛けられた広域地図を睨みつけていた。
つい先刻までの祝賀ムードは、この一報で氷のように凍りついた。王宮内を武官たちの慌ただしい足音が駆け巡り、私たちにも即刻、東部戦線への帰還命令が下った。
帝都を発つ前夜。
与えられた自室で、私は一人、揺らめく灯りを頼りに地図と報告書の写しを広げていた。
(早すぎる……。王国軍の動きが、あまりにも)
兵士を補充し、物資を整え、指揮系統を立て直す。物理的にかかるはずの時間が、あまりにも短い。なぜだ?
思考の網の目が、不意に一つの形を結ぶ。
(……違う。これは「再編」じゃない。「動員」だ)
質の高い軍隊を再構築したのではない。国内のあちこちから、ただ兵士をかき集めただけ。装備の質も練度も無視して、見かけ上の「大軍」を仕立て上げたのだ。そんな張り子の虎で、本気で勝てると?
(……いや、彼らは「勝てる」と思っている。そうでなければ、こんな暴挙には出ない)
その根拠は何か。『剣聖』と『聖女』か?
いや、違う。彼らがいるなら、もっと時間をかけて万全を期すか、逆に寡兵でその力を誇示するはずだ。こんな急ごしらえの大軍は、彼らが居るのなら必要とはならない。
ならば、彼ら以外の、何か。あるいは、誰か。
そこで、私の脳裏に、前世で嫌というほど見てきた光景が甦った。会議室の椅子にふんぞり返り、責任を押し付け合う上司たちの顔。会社の派閥争いだ。
「閣下」
出発の準備を進めるグレイグの部屋の扉を叩く。武具の擦れる硬い音が、彼の焦りを物語っていた。
「今回の出兵、敵の『剣聖』たちは動いていない可能性が高い。そして……おそらくですが、王国軍は新たな『軍師』を立てています」
「……何?」
グレイグが、驚きに目を見開いて私を見た。
「詳しく話せ」
私は言葉を選び、静かに、しかし確信を込めて語り始めた。
「この性急な出兵は、王国軍上層部の焦りです。彼らは『剣聖』という切り札に頼らず、自分たちの手で勝利し、軍内部での主導権を取り戻したい。その功名心が、この無謀な動員を強行させたのです」
グレイグは、腕を組んで黙って聞いている。
「ですが、彼ら自身に帝国軍を打ち破る才覚がないことも、自覚しているはず。権力争いに長けた人間は、得てして実務能力に乏しいものですから」
私は、前世の上司たちの顔を思い浮かべながら続けた。
「そこで、彼らは都合の良い『駒』を使う。……おそらく、非常に有能でありながら、家柄や政治力を持たぬがゆえに冷遇されてきた、悲運の軍人。そういう人物に、今回の作戦の全権を委任するのです」
「……どういうことだ」
「考えてみてください。その『駒』が勝利すれば、手柄は彼を抜擢した自分たちのもの。もし負ければ、全責任をその『駒』一人に押し付けて切り捨てる。彼らにとって、これほど都合の良い話はありません」
私の言葉に、グレイグの目がカッと鋭く光った。
「……つまり敵は、『剣聖』という化け物の代わりに、俺たちと同じ知恵で戦う人間をぶつけてくる、と。しかもそいつは、勝っても負けても切り捨てられる、使い捨ての天才……そういうことか」
「はい。あくまで推測ですが。敵の軍は一見すると張り子の虎。ですが、それを操るのは手足を縛られた本物の狼……そう想定しておくべきです」
しばしの沈黙。
やがて、グレイグの口元に、いつもの不敵な笑みが浮かんだ。
「……面白い」
彼はニヤリと歯を見せる。
「権力に目が眩んだ豚どもが考えつきそうな、醜悪な手だ。確かにお前の言う通りかもしれん」
ガシ、と大きな手が私の頭を乱暴に撫でた。
「ならば、どちらに転んでも面白い戦いになる。まずは、お前のその勘が正しいかどうか。そして、その『悲運の狼』とやらが一体どこのどいつなのか……戦場で確かめるとしよう」
再び、東部戦線という名の舞台へ。
まだ舌に残る帝都のケーキの甘さを振り払うように、私は心を切り替える。
王国軍の内部に渦巻く黒い感情と、それに翻弄されるであろうまだ見ぬ好敵手。その存在が、私の胸を奇妙に高鳴らせていた。




