第203話:『暁の出航』
ポルト・アウレオでの二日間の休息は、嵐の前の凪のように瞬く間に過ぎ去った。
夜明けの光が石畳を濡らす頃、港には再びあの『高速蒸気揚陸艦』が、主たちの帰還を待って静かに巨体を横たえていた。潮の香りが、旅立ちの気配を運んでくる。
マルコの商館では、慌ただしい朝の時間が流れていた。
荷をまとめるマリアの傍らで、完璧な執事リリィが音もなく動く。マリアが次に必要とするものを完璧に予測し、まるで手品のように差し出すその仕草に、一切の無駄はない。
「マリア様。……こちらを」
ふと、リリィが純白の手袋に包まれた指先で、一枚の小さなメモをマリアの手のひらに滑り込ませた。そこには数人の商人の名と店名が、インクの匂いも新しい、美しい筆跡で記されている。
「……これは?」
「この街に残る、古い埃の名前ですわ」
リリィは人形のように無表情なまま、淡々と告げた。
「わたくしという存在が消えた後、余計な騒ぎを起こしかねない方々。先にお掃除なされば、後々が楽かと存じます」
その声はどこまでも平坦だったが、マリアはその裏にある氷のような意図を即座に読み取った。アルビオンに繋がり、自分たちが去った後に面倒の種となりかねない者たちのリスト。
「……はたけば、色々とお出になるかと」
リリィはそう付け加えると、再び完璧な執事の仮面に戻り、マリアの外套を恭しく手に取った。
マリアは喉の奥で「ふふっ」と愉悦の笑みを漏らすと、すぐに『影の部隊』の一人を呼び出し、そのメモを渡す。
「これをピエトロ殿へ。『聖女から、少し早いけれど街の大掃除の提案よ』と」
影は無言で一礼し、闇に溶けるように消えた。マリアはすました顔で紅茶をすするリリィの横顔を一瞥する。
(本当に、面白い玩具を拾ったものだわ)
◇◆◇
やがて全ての準備が整い、私たちは港へと向かった。
タラップの前では、レオ兄ちゃんが一人、私たちを見送りに来てくれていた。その瞳は少し潤んでいたが、奥には決意の炎が揺らめいている。
「リナ。……気をつけてな」
「うん。レオ兄ちゃんも」
「俺もこの街で頑張る! いつかお前や孤児院のみんなに胸を張れる、でっかい商人になってみせるからな!」
その真っ直ぐな誓いに、私は心からの笑顔で頷いた。
「次に会う時を楽しみにしてるね!」
固く握り合った手のひらに、互いの決意が伝わる。私たちは船上の人となった。
やがて、腹の底に響くような長い汽笛が鳴り響き、高速蒸気揚陸艦がゆっくりと岸を離れる。
甲板から手を振る私たちに、レオ兄ちゃんの姿が見えなくなるまで、彼は大きく手を振り返し続けていた。
私、セラさん、ヴォルフラムさん。
マリア様と、その傍らに影のように控えるリリィ。
船首で腕を組み、仁王立ちで海を見つめるハヤトさん。
ゲッコーさんは、いつの間にか船のどこかの影に溶け込んでいる。
私たちはそれぞれの思いを胸に、一路、帝国の軍港『アクア・ポリス』を目指す。
船が港を完全に離れ、外洋へと進路を取った、その瞬間。
ゴゴゴゴゴッ!
船全体が巨大な獣の身震いのように激しく揺れ、ありえない速度で加速を始めた。
「「「うわあああっ!?」」」
私とセラさん、そして宰相から乗り心地の悪さを散々聞かされていたはずのマリア様でさえ、その暴力的なまでの衝動に悲鳴を上げた。立っているのがやっとだ。
その阿鼻叫喚の中、平然としているのは見える範囲で三人だけ。
船首で「ヒャッホー!」と雄叫びを上げるハヤトさん。
微動だにせず、私の盾となるべく床に根を張るように立つヴォルフラムさん。
そして主人がよろめくのを、完璧な体捌きで支えるリリィ。
ポルト・アウレオの街並みが、陽光の中でみるみるうちに小さくなっていく。
この活気に満ちた港町は、やがて旧体制派の商人たちが関わる巨大なスキャンダルに揺れることになるが、それはもう私たちのあずかり知らぬ物語。
私たちの船は、乗組員の悲鳴さえも置き去りにして、ただひたすらに未来へと、その鋼の船首を向けていた。