第202話:『暁の食卓、影の刃』
窓の細い隙間から、鋭い筋となった朝日が差し込み、床に長い光の帯を刻む。
遠くで鳴る鐘の音が、朝の目覚めを告げていた。活気づき始めた港の喧騒が、湿った潮の香りと共に開け放たれた窓から流れ込んでくる。
商館の一階、貸し切りにされた大食堂。
銀食器が鈍い光を放つ長いテーブルに、最初に現れたのは聖女マリアだった。だが彼女は一人ではない。その半歩後ろに、影そのものが人の形をとったような女が付き従っていた。
黒を基調とした、機能的で隙のない執事服。清潔にまとめられた髪。そして一切の感情を読み取らせない、精巧な硝子人形めいた無表情。
マリアが席に着こうとすると、女は音もなく椅子を引いた。マリアが腰を下ろすのを見届け、再び静かに元の位置へ戻る。そこには一切の淀みも無駄もなかった。
「……見事なものね」
マリアは、感心と呆れが入り混じった吐息と共に呟いた。
「それで? あなたのことは何と呼べばいいのかしら」
問いかけに、女は初めて口を開く。
「お好きなように、マリア様。……名が必要でしたら『リリィ』とでも」
その声には、昨夜の快活なシスターの面影は微塵もない。温度のない、磨き上げられた水晶のような声だった。
「そう、リリィ。……良い名前じゃないの」
マリアの口元に、引きつった笑みが浮かぶ。
(……ほんっとに...食えない女)
二人の狐による腹の探り合いが終わる頃、他の者たちが次々と食堂へ姿を現した。
国王の朝食は、本来なら厳重な警備と儀礼に縛られたものだ。だが、その日の食卓はアルフォンス新王の強い意向で全く違う様相を呈していた。
「――堅苦しいのは抜きだ。皆、同じテーブルで」
その一言で物々しい警備は最低限に抑えられ、一つのテーブルに身分の垣根なく席が設けられる。無論、食堂の四隅には王家の親衛隊と帝国の『影』が音もなく控え、万が一に備えている。それでも卓上には、王が望んだ通り、共に戦った仲間たちのための会食の雰囲気があった。
セラとヴォルフラムに両側から支えられるようにして、リナは食堂に姿を現した。
その顔色は青白く、足取りもどこか覚束ない。昨夜の衝撃が、まだ重い影となってリナにのしかかっていた。
やがてアルフォンスが席に着き、和やかな食事が始まろうとした、その刹那。
リリィの視線が、ほんの一瞬、無防備な王の背が目に入った。
(……今なら)
諜報員としての無意識な計算が、彼女の脳裏を閃光のようにはしる。この油断しきった状況。今ならば王を排除できる、と。
その思考が、ごく微かな殺気となって空気に滲み出た。
ヴォルフラムが、それを見逃すはずもなかった。
食堂の喧騒が、ふつりと途切れた。
ヴォルフラムの姿が陽炎のように掻き消える。次の瞬間、リリィの喉元に、命の温度を奪う冷たい鋼の感触が突きつけられていた。音もなく抜き放たれた剣の切っ先。常人には目で追うことすら叶わぬ、神速の芸当だった。
「――マリア様。この者は?」
ヴォルフラムの声は、魂まで凍てつかせるような絶対零度を帯びていた。
その場の空気が一瞬で凍りつき、アルフォンスもグランも、何が起きたのか理解できずに固まっている。
「あらやだ、ヴォルフラム。ありがとう」
マリアだけが、優雅に微笑んでいた。
「その子は今、わたくしが調教中なの。何かあったらお願いするわね?」
「……感心いたしませんね」
「そう固いことを言わずに。……あなたも、余計なことは考えないことね? リリィ」
マリアの最後の言葉は、静かにリリィを射抜いた。
「……お手数をおかけいたしました」
リリィは喉元の刃にも動じず、完璧な執事の仮面を被ったまま頭を下げる。だがその内側では、冷たい汗が背筋を伝っていた。
(……全く、剣先が見えなかった……!)
彼女は執事の役割に没頭することで、かろうじて平静を保っていた。
ヴォルフラムはマリアの言葉に、ゆっくりと剣を収め、元の席へ戻る。
その息詰まる攻防を、食堂の隅にいたゲッコーだけが無表情に見届け、そして再び壁の影に溶けていった。
焼きたてのパンの香ばしい匂いと、温かいスープの湯気が立ち上る。
しかし食卓を囲む空気はもはや「ぎこちない」という生易しいものではなかった。ヴォルフラムの凍てつく視線が常にリリィを刺し、リリィはそれを柳に風と受け流しながら完璧な執事を演じ続ける。その張り詰めた空気が、テーブルを支配していた。
「……リナ。顔色が優れないわ。もっとお食べなさい」
マリア様が心配そうに私の皿へパンを一つ置く。
彼女もグラン宰相も、昨夜のことはおくびにも出さない。ただ穏やかに微笑んでいる。だがその優しさが、棘のように心を苛んだ。
昨夜の出来事は夢ではない。この穏やかな日常のすぐ足元に、深い奈落が口を開けている。
私は俯き、ただスプーンで意味もなくスープをかき混ぜるだけだった。
その重苦しい空気を破ったのは、セラさんだった。
彼女は私の隣に静かに腰を下ろすと、にっこりと微笑みかける。
「リナ様。昨夜はよく眠れましたか?」
あまりに普段通りの声に、私は顔を上げた。
「……セラ、さん……?」
「今朝のスープは少し味が濃いようですわね。疲れた体にはこれくらいが良いのかもしれませんが」
彼女はただ、スープの感想を述べているだけ。
だが、その翠の瞳の奥には、確かな光が宿っていた。
『――何があろうと、私たちはあなたの側にいます』
言葉にならない温もりが、凍てついた心の芯に真っ直ぐ届く。
隣のヴォルフラムさんも、私の視線に気づくとリリィから一瞬だけ目を離し、無言で力強く頷いた。その蒼い瞳にも、同じ光があった。
そうだ。私は、一人じゃない。
この人たちが、いる。
どんな未来が待っていようと、この手は決して私を離さない。
胸の奥で凍りついていた何かが、ふっと溶けていく。
私はようやく顔を上げ、二人に向かって少しだけ震える声で言った。
「……はい。……とても、美味しいです」
それは私が再び前を向くための、小さな、しかし確かな一歩だった。
その時だった。
食堂の扉が、何の遠慮もなく勢いよく開け放たれた。
「腹減ったー! 俺の分の朝飯はあるか!」
現れたのは、一仕事終えてきたらしい『黒曜の疾風』さんだった。その肩には、なぜか涙目の猫が一匹乗っている。
テーブルの豪華な食事を見るなり、彼は目を輝かせた。
「おっ、すげぇご馳走じゃねえか! さすがは国王陛下だな!」
空いていた席――私の真向かい――にどかりと腰を下ろし、給仕係が慌てて持ってきた皿に山のようにパンと肉を盛り付け始める。
「ん? ……どうしたんだリナ。目が真っ赤じゃねえか。誰かに泣かされたか?」
私の顔を覗き込み、彼はもぐもぐと口を動かしながら無邪気に尋ねてくる。
その言葉が終わるか終わらないか。
彼の肩で大人しくしていた猫が、黒い弾丸のようにテーブルへ飛び降りた。狙いはハヤトさんの皿のソーセージだ。
「おわっ! こらてめぇ! それは俺のだ!」
ハヤトが慌てて手を伸ばすが、猫はひらりと身をかわし、今度はミルクピッチャーに前足をかける。白い陶器がぐらりと傾いだ。
「だっ、そっちもダメだっつーの!」
悲鳴に近い声と共に、ハヤトが目にも留まらぬ速さでピッチャーを掴む。熟練の曲芸師のような動きだった。
結局、全てを守り抜いたハヤトは、どこか芝居がかってぜぇぜぇと息を切らしている。当の猫は何食わぬ顔で彼の頭に飛び乗り、「にゃーん」と甘えた声を上げた。
その見事な一人と一匹のドタバタ劇に、張り詰めていた場の空気が、ぷつりと音を立てて切れた。
「……ぷっ」
誰からともなく、小さな笑い声が漏れる。
「ふふっ……」「ははは……」
それは伝染し、やがて食堂は温かい笑い声に包まれていった。
「な、なんだよみんなして」
わざとらしくきょとんとするハヤトさんに、私はもう泣き笑いを浮かべるしかなかった。
(……不器用な人)
彼なりのやり方で、この重い空気を吹き飛ばそうとしてくれたのだろう。
「……なんでも、ありません。……その子、とても元気な猫ですね」
「ああ、そうだろ? 木の上から降りられなくなってたから助けてやったんだ。俺は正義の味方だからな!」
得意げに胸を張る彼の膝の上で、猫が満足げに喉を鳴らした。
重苦しい空気は、完全に吹き飛んでいた。
私はようやく心からの笑顔で、温かいスープを一口、口に運ぶ。
窓の外では、黄金色の港が旅立ちの時を告げるように、眩しく輝いていた。
◇◆◇
和やかな朝食が終わり、人々が持ち場へ戻っていく。
女執事リリィはマリアに新たな紅茶を淹れるため、給仕室へと続く静かな廊下を歩いていた。磨き上げられた石の床に、彼女自身の靴音だけが冷たく響く。
ふと、背後で靴音が一つ、増えた気がした。
リリィは足を止めない。だが全神経を背後へと集中させる。気配はない。風の揺らぎすらない。
だが、いる。
死そのものが、すぐ背後に立っていた。
(……いつの間に……!)
百戦錬磨の諜報員である彼女が、全く接近に気づけなかった。その事実に、背筋を氷の汗が伝う。
給仕室の扉に手をかけた、まさにその瞬間。
「――おい」
脳髄に直接響くような、地を這う低い声が耳元で囁かれた。
振り返る暇もなく壁に押し付けられ、首筋に鞘に収まったままの剣の鯉口が突きつけられる。
「おめぇがナニモンか知らねぇが」
声の主はハヤト。だが、その声には食堂での脳天気な響きは微塵もない。獲物の喉笛に牙を突き立てる寸前の、飢えた獣の声だった。
リリィの背筋を、本能的な恐怖が走り抜けた。
「――マリアに悪さすんならさぁ、明日の朝日は拝めねぇようにしてやるから。そのつもりで、頑張れや」
それは脅しではなかった。
ただ変えようのない事実を告げる、静かな宣告。
「……っ!」
完璧な仮面を保っていたリリィの喉が、ひゅっと鳴った。
ハヤトはそれだけ言うと、まるで偶然通りかかっただけのように、鼻歌を歌いながら去っていく。
後に残されたのは、壁に手をつき、荒い息を繰り返す一人の女執事だけだった。
ガタガタと震える膝の力が抜け、その場に崩れ落ちそうになるのを必死で堪える。
(……まったく、ここは化け物の巣か……)
リリィ――リゼットは、自らが足を踏み入れた世界の恐ろしさを改めて肌で感じていた。
だが、その魂を削るような恐怖の奥底で、忘れかけていた歓喜に打ち震える自分がいることに、彼女は気づいていた。
そしてそのスリルに、心のどこかで打ち震えるほどの愉悦を感じている自分にも、気づいていた。