第201話:『仮面の夜会』
ポルト・アウレオの夜はどこまでも深い。
マルコの商館の一室に、青白い月明かりが差し込んでいる。部屋を支配するのは重い沈黙。グラン宰相が残した言葉の残響が、まだ空気中に漂っているかのようだった。
私は、彼女が去った後も長く動けずにいた。
膝の上で固く握りしめた拳が、爪の食い込む痛みも忘れて小刻みに震える。
自分が消える。私という存在が、霧散してしまう。底なしの泥濘に足を取られたような、冷たい恐怖が全身を蝕んでいた。
「リナ様……」
セラさんの声が、水底から聞こえるように遠い。
不意に肩に重みを感じた。ヴォルフラムさんが掛けてくれた毛布だった。その無言の優しさが、かろうじて私をこの場に繋ぎ止める。
その夜、二人は一睡もせず私のそばにいてくれた。浅い眠りに落ちては正体不明の何かに追われる悪夢に喘ぐたび、セラの手が氷のような私の手を強く握りしめ、背後にはヴォルフラムの揺るぎない気配が、静かな盾のように存在していた。
◇◆◇
同じ頃、街の喧騒とは無縁の地下深く。
機密結社『青の洞窟』、その最奥の一室はランプの灯りだけが揺れていた。マリアは一人、グラスを傾けていた。指先で弄ぶ琥珀色の液体が、ゆらりと光を弾く。
やがて重厚な扉が音もなく開き、一人の修道女が滑り込むように入ってくる。アイリスだ。
「お呼びと伺いましたわ、マリア様」
薄暗い石室に場違いなほど明るい声。その太陽のような笑顔が、今はひどく歪んで見えた。
「ええ。回りくどいのは嫌いなの」
マリアはグラスを置き、冷え冷えとした瞳でアイリスを射抜く。
「あなたの素性には興味ない。どこの間諜であろうと、今はどうでもいいわ。ただ、あなたのような危険な駒を盤の外で遊ばせておくのは、私の趣味じゃないの」
「まあ、ひどい言われようですわ」
アイリスは愛らしく小首を傾げる。だが、その瞳の奥は氷のように冷え切っていた。
「だから、あなたを私の側近にする」
マリアは悪魔のように、抗いがたい命令を告げた。
「私の側で、完璧な執事を演じなさい。……もし、余計な真似をすれば……どうなるか、賢いあなたなら分かるわね?」
カツン、とグラスを置く硬質な音が響く。
その静かな脅しに、アイリスの笑顔が、一瞬だけ能面のように消えた。だが次の瞬間には、花が咲くような笑みを浮かべている。
「まあ! マリア様にお仕えできるですって? なんて光栄でしょう! 喜んでお受けいたしますわ!」
スカートの裾をつまみ、戯曲の女優さながらに優雅な礼をしてみせる。
「明日の朝までに、完璧な執事を用意しておきなさい。……造作もないことでしょう?」
マリアの挑発的な笑みに、アイリスは満面の笑みで応えた。
「ええ、もちろんですわ! どうぞお任せくださいませ、マリア様!」
一点の曇りもない完璧な笑顔。
アイリスを演じきる女を前に、マリアの口元が微かに引きつった。
二人の視線が、昏い部屋の中で火花のように交錯する。
グラスに残った琥珀色の液体が、ただ静かに揺れていた。