第200話:『神話が告げる代償』
月光が磨かれた床に、青白い刃のような筋を描く。
ひやりと冷たい夜気の中、グラン宰相が静かに口を開いた。
「この世界の理の根源は、おそらく二つ。土、そして水です」
その声は古い聖堂に響く祈りのように厳かで、重い。
「土の精霊は、我々に二つの恩恵をもたらします。一つは、戦士たちの常人離れした強さ。遥か古より人々の身体に溶け込み共生する種類の精霊が、鍛錬に応じて神経を速め、筋肉を鋼に変える。故に、この世界の人の強さの上限は、本来あるべき限界を遥かに超えているのです」
ミトコンドリアのような物と考えれば良いと思うと、グランは補足をした。
「そしてもう一つが、わたくしやマキナが使うような、土そのものを操る魔法。庵に施した存在強化もその一種です」
彼女は一度言葉を切り、続ける。
「水の精霊も同様です。わたくしのように直接水を操る魔法は稀ですが、癒やしの力としても顕現します。マリア様の聖魔法。あれは『契約』に近いもの。治癒のイメージという特定の言の葉を声に乗せ、自らの精神力を対価として水の精霊に働きかけ、現象を励起させるのです」
マリア様は組んだ指先に視線を落としたまま、黙して語るに任せている。月明かりに照らされた横顔は、石膏像のように感情を映さない。
「土も水も、わたくしたちが紡ぐ言の葉は一度、精霊語へと変換される。仲介するが故に成せることには知りえた言の葉の範囲であり、その対価として消耗も激しい」
「ですが」
グラン宰相はゆっくりとこちらに向き直った。その深い瞳が、私の心の奥底までも見透かすように真っ直ぐに注がれる。
「リナさん、あなたは違う。土にも水にも、直接、語りかけているのではありませんか? その意味を真に理解した言葉でなければ、精霊は応えないはず」
彼女は横に置いていた硬質な鞄から、一冊の古びた書物を取り出した。絹の衣擦れと共に、乾いた革の匂いが微かに漂う。黄色く変色した羊皮紙は、触れれば崩れ落ちてしまいそうだ。
「わたくしが収集していた書物の中に、このような神話がありました。ただの創作物語だと、そう思っておりました。……ですが」
彼女は脆くなったページを慎重に開き、そこに記された一節を、静かに読み上げた。
「――『その者、北の地にて輝く身体を持ち、精霊の言葉を操りて意思を疎通させ、癒やしの泉を産み出し、回復の実のなる木を育て、強固な土の護りを得ていた。神のごとき力は信仰の対象となったが、いつしか光となりて姿を消し、以後、姿なき大地の神として崇められる』……」
古びた神話の一節。
その言葉が、氷の矢となって私の心臓を音もなく貫いた。
(……輝く身体……癒やしの泉(水)……強固な土の護り(土)……)
脳裏に、いくつもの光景が焼き付くように蘇る。鏡に映った光を放つ己の姿。ヴォルフラムさんを癒やした温かい光。そして、天が砕ける崩落を止めた奇跡の中、私だけが見た光の乱舞。
「リナ?」
マリア様の声に、はっと我に返る。
ぞくり、と悪寒が背筋を走り抜けた。あの時、大地から感じた歓喜の波動。あれは、私の力に呼応した精霊たちの声だったというのか。
「……リナさん。もしあなたが、神のような存在になりたいと望むなら、わたくしは止めませんわ」
グラン様の静かな声が、どこか遠くで響く。
「でも、そうでないのなら……。その力は、出来る限り使わないことをお勧めします」
「わ、わたし……消えちゃうの……?」
喉から絞り出した声は、自分のものではないように震えた。
「さあ。ですが、その可能性は高いかもしれませんわね」
グラン宰相の声は、どこまでも静かだった。突き放す響きはない。ただ、変えようのない事実を告げる重みがそこにあった。彼女は私の背を優しく撫でながら続ける。
「いずれにせよ、この神話の裏付けとなるものを、近いうちに探し出さなければ……」
その言葉が、凍りついた私の思考に火花を散らした。
(裏付け……神話……あの岩……!)
皇帝の宝物庫の隅にあった黒い岩。表面を埋め尽くす渦巻く紋様。脳内に直接響いた、あの古代の祈り。
「わ、私、その証拠、持ってます…!」
私は勢いよく顔を上げた。
「『嘆きの石』…! 宝物庫にあったあの岩です! そこに記されていた文字の意味が判って、それを口に出したら…」
言葉が先走り呼吸が追いつかない。そうだ、あの岩こそがこの神話が真実であると指し示している。私は縋るようにグラン宰相の手元にある古文書に視線を向けた。
「……あの、グラン宰相。その書物、少し……」
震える指先で古文書を受け取る。そこに記されていたのは、見たこともない古い言葉。
だが、私には読めた。神話の続きが、そこにあった。
『神子は、大地の声に応えすぎた。その魂は大地に溶け、人の形を失い世界そのものとなった』
真実だ。このまま力を使い続ければ、私は、私でなくなってしまう。
理解してしまった。
「う……あ……っ」
声にならない嗚咽が漏れ、体がガタガタと震え出す。その小さな体を、グラン宰相が母親のように優しく、けれど強く抱きしめた。
「大丈夫。派手に使い続けなければ、きっと大丈夫よ。……今回は、少しやりすぎただけ」
その温もりに張り詰めていた何かが切れ、堪えていた涙が堰を切ったように溢れ出した。
◇◆◇
どれほどの時間が経っただろう。
グラン宰相の合図で、セラさんとヴォルフラムさんが部屋に入ってきた。私の涙で濡れた顔と、部屋に張り詰めたただならぬ空気に、二人の顔が険しくなる。ヴォルフラムさんの手は、いつの間にか剣の柄を固く握りしめていた。
「……落ち着いてください、お二人とも」
私がか細い声で言うと、グラン宰相が静かに全てを語り聞かせた。
話を聞き終えたセラさんは絶句し、その顔からさっと血の気が引いていく。
そしてヴォルフラムさんは、ただ呆然と、自分の両手を見つめていた。私を救うために傷を負った手だ。
「……私は……。リナ様に、これほど危険な力を、使わせてしまったというのか……」
彼女は、崩れるようにその場に膝をついた。
ゴツリ、と硬い音が床に響く。そして自らを罰するかのように、床に額を強く押し付けた。
「……もう、二度と……! このヴォルフラム、今後、一つの傷も負わぬと誓います! リナ様に、二度とこの力を使わせはしない!」
痛切な誓いが、静まり返った部屋に木霊する。
その言葉を吸い込んで、夜の沈黙はさらに重く、深く、どこまでも続いていくようだった。
祝!200話到達です!
...とは素直に喜べない重い話でした。
リナちゃん、頑張れ!
しかし...200話を超えて、やっとこの世界の真理に近いところ(文中はグランの推論ですが、かなり正鵠を得ています)を、作品の表に出すことが出来ました。
...いや、長かった(笑)