第199話:『銀の杯と三つの影』
ポルト・アウレオの夜は、遠い潮騒と喧騒が溶け合う甘いざわめきに満ちていた。
マルコの商館、その最上階。開け放たれた窓から流れ込む夜風が、月光だけが差し込む静かな一室のカーテンを揺らす。
テーブルを囲むのは、三人。
グラン宰相、聖女マリア様、そして私。
セラとヴォルフラムには、グラン宰相が「内密の話がありますので」と柔らかな笑みで、しかし有無を言わせぬ圧力をかけて席を外してもらった。
テーブルの上では、年代物のワインが深いルビー色に輝き、ミルクやジュースの入ったグラスが月光を弾いている。色とりどりのドライフルーツが盛られた皿も、まるで宝石のようだ。昼間の張り詰めた空気は嘘のように消え去り、そこはまるで気の置けない友人たちの夜会だった。
「それにしても、リナ」
マリア様が、ワイングラスを優雅に傾けながら、その向こうから射抜くような視線を向けてきた。
「聖王国ではあなたを見つけられず、本当にやきもきさせられたわ。一体どこをほっつき歩いていたのかしら?」
少し棘のある言葉に、私は思わず肩をすくめる。
「……申し訳ありません。まさか、皆様が聖王都にいらっしゃるとは思ってもみなくて……」
「まあまあ、マリア様。リナさんも大変だったのですから」
グラン宰相が助け舟を出すように、穏やかに微笑む。
「それよりもハヤトさんのことですわ。彼の無茶な行動は、私も王国を代表して謝罪いたします」
「ふん。あのお馬鹿さんのせいで、こちらもどれだけ肝を冷やしたことか」
マリア様はため息をついたが、その瞳の奥には微かな安堵の色も見える。私も慌てて言葉を継いだ。
「ですが、ハヤトさんがいてくれたから私やヴォルフラムさんたちが助かったのも事実です。……それに、あの拠点には大量の銃器がありました。あれを野放しにしていれば、もっと大変な事態になっていたはずです」
「銃器……」
その言葉が落ちた瞬間、室内の空気がわずかに重くなった。
「ええ。アルビオンは、帝国と王国が持たぬ力をいくつも有している。そう考えた方が良いでしょう。これからは、それを前提に全てを計らねばなりません」
私の言葉に、三人の間で静かな、しかし鋼のように固い意志が共有される。
「それで、マリア様」
私は昼間の出来事を思い出し、尋ねた。
「シスター・アイリスとは、本当に旧知の仲だったのですね」
「ええ、まあね」
マリア様は、少しだけ面白くなさそうに鼻を鳴らす。
「王都で奉仕活動をしていた頃からの腐れ縁よ。お人好しで少々お節介だけれど、悪い子ではないわ。……今は、私の『目』としてこの港町の様子を色々と報告させているの」
あまりにさらりとした物言いに、私とグラン宰相は顔を見合わせた。聖女の情報網は、我々の想像以上に深く張り巡らされているらしい。
「そうですか。私、サンタ・ルチアの港でソフィアさんという魚市場の組合長に大変お世話になったんです。アイリスさんもそうですが、ヴェネツィアには義理人情に厚い、素敵な女性が多いのかもしれません」
「ソフィアね」
私の言葉に、マリア様の眉がぴくりと動いた。
「あの女傑。彼女はヴェネツィアの古い商人たちとは犬猿の仲で有名よ。……ふふ、あなたも面白い駒を拾ったじゃないの」
「駒だなんて、そんな……」
彼女の冷徹なまでの洞察力に、私は言葉を濁すしかなかった。
「ところで、経済特区の件はいかがでしょう」
私は流れを変えるように、本題の一つを切り出した。
「順調ですよ」と答えたのはグラン宰相だ。
「マルコという商人、実に面白い男です。斬新な切り口で街創りの計画を進めています。私やマキナが話した内容も即座に理解し、今や全てを取り仕切ってくれている。……彼ならきっと、我々の想像を超える素晴らしい街を創ってくれるはずです」
話が一段落し、グラスの中の液体が静かに揺れる。心地よい沈黙が落ちた、その時だった。
カタリ、と。
グラン宰相が、手にしていたグラスをテーブルに置いた。それまでの柔和な雰囲気が霧散し、賢者としての怜悧な光がその瞳に宿る。
「さて……本題に入りましょうか」
「マリア様には、以前少しだけお話ししましたわね」
彼女の声は、夜の静寂に吸い込まれるように低く響いた。
「──この世界の、魔法の理について」
その一言で、部屋の空気が凍りついた。
甘い夜会の雰囲気は完全に消え去り、私たち二人は息を呑み、賢者の次の言葉を待った。