第198話:『黄金港の陽光と、路地裏の影』
ポルト・アウレオの朝は、カモメの甲高い鳴き声と、遠くで鳴る出港を告げる鐘の音で幕を開けた。石畳を洗う潮風が頬を撫で、焼きたてのパンと干し魚、そして異国の香辛料の匂いが混じり合って鼻をくすぐる。
昨夜の喧騒が嘘のように穏やかな光の中、私たちは二手に分かれ、束の間の休日を過ごすことにした。
アルフォンス新王は、この街で最も信頼できる商人、マルコ・ポラーニとピエトロ・ロレンツォを伴い、港湾施設の視察へ向かった。巨大なクレーンや、腹に荷を詰め込んだ大型船を見上げるその横顔は、王の公務というより、巨大な船の仕組みを知りたいと、その瞳は、新しい玩具を見つけた少年のようにきらきらと輝いていた。
一方、私たちは女性だけの、優雅な散策と相成った。
先頭を歩くのは私とマリア様、そしてグラン宰相。その数歩後ろを、セラとヴォルフラムが周囲に一切の隙を見せず、影のように続く。
「まあ、見て! なんて美しい宝石!」
露店に並ぶ色とりどりの宝飾品に、マリア様が歓声を上げた。その姿は『聖女』の威厳など微塵もなく、異国の品々に胸をときめかせるところはごく普通の娘と変わらない。
「マリア様、あまりはしゃぐとスリに目をつけられますわよ」
母親のように呆れたグラン宰相の声に、マリア様は悪戯っぽくぺろりと舌を出した。
やがて私たちは、港で一番と評判のカフェを見つけ、海風が心地よいテラス席に腰を下ろす。運ばれてきたのは、陽光を浴びて艶めく果実が乗ったタルトと、芳醇な湯気が立ち上る紅茶。
「……美味しい……」
口に含んだクリームが舌の上でとろけ、優しい甘さが広がる。思わず頬が緩んだ。
「ええ、本当に。王都にも、こんなお店があれば良いのですけれど」
書類の山から解放されたグラン宰相の表情も、いつもよりずっと柔らかい。
だが、その穏やかな時間は唐突に破られた。
通りの向かい、建物の屋根から黒いマントがひらりと舞い降りる。
「――そこの悪党! 貧しい花売り娘から金を奪うとは、許さん!」
『黒曜の疾風』ことハヤトが、今日も高らかに正義を叫ぶ。彼の鉄槌が振り下ろされるのと、市場の果物カゴが一つ派手に宙を舞うのは、ほぼ同時だった。
「…………」
私たちは三人、顔を見合わせ、無言のまま視線を目の前のタルトに戻す。
.........見なかったことにしましょう。
悪党らしき男は、いつの間にか現れた影に口を塞がれ、音もなく路地裏へと消えていった。
「……ふぅ」
私が紅茶を一口飲んで気を取り直した、まさにその時だった。
「まあ! 皆様、こんなところに!」
太陽のように明るい声が、テーブルに降り注ぐ。
振り返れば、純白の修道服をまとったシスター・アイリスが立っていた。雑多な港町の景色の中で、彼女の周りだけが清らかに輝いて見える。
だが、その声が聞こえた瞬間、マリア様の表情からふっと温度が消えたのを、セラは見逃さなかった。聖女の完璧な微笑みが、一瞬だけ、氷の仮面のように硬直したのだ。
(……敵意……? いや、それとは違う。もっと複雑な……)
セラの思考が警鐘を鳴らす。
アイリスがにこやかに歩み寄ろうとした、その刹那。
それまで背後に控えていたセラが、すっ、と半歩前に出てマリア様との間に割り込んだ。物理的な壁となり、アイリスの接近を無言で、しかし断固として阻む。ヴォルフラムもまた、いつでも動ける体勢でアイリスを牽制していた。カフェの和やかな空気が、一瞬で張り詰める。
「あら、アイリス。驚いたわ」
マリア様はセラを制するように軽く手を上げ、笑顔で応じた。だが、その目は全く笑っていない。
(……聖堂で大人しくしていろと言ったはず。一体何のつもりかしら……?)
アイリスの正体が判っているがゆえに、その内心は苛立ちで渦巻いていた。
「聖堂の子供たちとお買い物に来ていたんです。偶然お見かけしたので、ご挨拶だけでも、と」
アイリスはセラたちの無言の圧力にも怯むことなく、完璧な笑顔を崩さない。
「立ち話もなんですし、そこに座ったらどうかしら?」
マリア様が指し示したのは、自分たちの空席ではなく、少し離れた隣のテーブルだった。
「まあ、ありがとうございます!」
アイリスはセラとヴォルフラムの殺気に近い視線を肌で感じながらも、嬉しそうに声を弾ませ、指定された椅子に腰を下ろした。
そこから先は、奇妙な距離感を保った会話が続いた。
アイリスは聖堂での奉仕活動や子供たちの逸話を、本当に楽しそうに語る。その巧みな話術に、私とグラン宰相は時折笑い声を上げた。
マリア様だけが、その仮面の下にある素顔を知るがゆえに、油断なく相槌を打っている。
そしてセラとヴォルフラムは、二つのテーブルの間に立ち、鷹のような目でアイリスの一挙手一投足を監視し続けていた。
「アイリスさん」
マリア様が懐中時計を取り出し、時間を確認するふりをして言った。声は柔らかいが、有無を言わせぬ圧がこもっている。
「そろそろお勤めの時間ではございませんこと?」
言葉の裏にある「部外者は席を外せ」という響きを、アイリスは即座に理解したようだ。
「まあ、そうでしたわ! では、失礼いたします。とても楽しかったですわ、またぜひ!」
彼女は最後まで太陽のような笑顔を振りまき、雑踏の中へと消えていく。
(ふふ。だいたいの人となりは分かったわ。大人しくしていれば、害はなさそうね)
アイリスは去り際にそう確信していた。
彼女の姿が完全に見えなくなり、セラがマリア様の隣に滑るように進み出る。
「聖女様。……あのシスターは何者です? とてもただの聖職者とは思えませんでしたが」
その問いに、マリア様は扇で口元を隠し、意味ありげに微笑んだ。
「あら、鋭いわね。……ええ、そうよ。あれは、わたくしが飼っている可愛らしい小鳥。……いいえ、今は牙を隠した蛇、かしら」
その言葉の真意を、セラは測りかねた。
そんなやり取りには気づかず、グラン宰相が改めて私たちに向き直る。
「リナさん。マリア様。……今夜、少しだけ三人でお時間をいただけませんか。……リナさんの、そのお力について、どうしてもお伝えしたいことが」
その真剣な声の響きに、私とマリア様は顔を見合わせ、静かに頷いた。
◇◆◇
聖堂への帰り道。アイリスことリゼットは、今日の成果を反芻しながら軽やかな足取りで路地を曲がった。
その瞬間、空気が変わった。
背後の壁から、ぬるりと影が剥がれるように人影が現れる。同時に、左右の屋根から複数の気配が音もなく降り注いだ。
完全に、包囲されている。
「!」
リゼットは咄嗟に身構えたが、遅かった。
目の前の影――ゲッコーが、彼女の間合いの内側へと無音で踏み込んでいる。
ひやりとした鋼の感触が、喉元に突きつけられた。短刀だ。
同時に体の数カ所を指で突かれ、全身の自由が霧散する。金縛りにあったように、指一本動かせない。
(……まずい。やりすぎたか……?)
冷や汗が背筋を伝う。本気の殺気だった。
地を這うような低い声が、耳元で響く。
「そなたはマリア様に忠実に従っておれば良い。そうでなければ…」
「……次は無い」
ゴッ、と鳩尾に鈍い衝撃。
意識が白く染まり、リゼットはその場に崩れ落ちた。
激しく咳き込みながら顔を上げると、ゲッコーの姿も、周囲の気配も、幻のように掻き消えている。
彼女はしばらく、冷たい石畳の上で動けなかった。ガタガタと震える体を抱きしめ、やがて、その唇に狂気じみた笑みが浮かぶ。
「……ふ。……ふふっ……すごいのねぇ、痺れるわぁ……」
バルドルが敗れたのは、単なる状況不利ではなかったのだと、肌で理解した。
「……またちょっかいを出したら、あの人、来てくれるかしら。ふふっ」
新たな玩具を見つけた子供のように、彼女は闇の中で一人、笑っていた。