第196話:『聖女の休日と、太陽と蛇』
ポルト・アウレオの陽光は、人の心を解きほぐす魔法のようだ。肌を撫でる潮風が心地よい。
セラさんとのお散歩がすっかり日課になった私は、その日、石畳に落ちる自分の影を見ながら提案した。
「セラさん。今日は、マリア様をお誘いしませんか」
「まあ、聖女様を?」
「はい。ずっとお忙しそうでしたから。少しは息抜きも必要かと」
私の言葉に、セラさんは少し目を丸くして、それからふわりと微笑んだ。
◇◆◇
マリア様は最初こそ、優雅に広げた扇の影で「わたくしは忙しいのよ?」とため息をついていた。だが、私の「とっても美味しいお菓子屋さんを見つけたの!」という一言に、扇をぱちりと閉じてあっさり腰を上げた。
ヴォルフラムも含めて四人で連れ立って歩く港町は、いつもより少しだけ華やいで見える。道行く人々が聖女様の気高い美しさに息を呑み、慌てて道を譲っていく。
だが、マリア様が足を向けたのは、洒落たカフェや高級宝飾店ではなかった。
向かった先は、街の一番外れ。潮風に晒され、壁の漆喰が剥がれ落ちた古びた聖堂。この港町の光から取り残された人々――身寄りのない老人や、働き口のない若者が、最後の拠り所として集う場所だった。
「ごきげんよう、皆様。お加減はいかが?」
マリア様が軋む扉を開けると、薄暗く薬草の匂いがこもる堂内に、ぱっと光が差し込んだ。中にいた人々が一斉に顔を上げ、その目に希望の色が灯る。
「聖女様!」「お待ちしておりました!」
その歓迎の輪の中心で、太陽のような笑顔を浮かべていたのが彼女だった。
日に焼けた健康的な肌に、快活な光を宿した大きな瞳。着古された純白の修道服が、かえって彼女の存在を際立たせている。
シスター・アイリス。
故郷を失いこの港町に流れ着いたという彼女は、その天性の明るさで、この澱んだ場所に温もりをもたらしていた。
「マリア様! お久しぶりです!」
アイリスはマリア様へ駆け寄ると、旧知の友のように親しげにその手を取った。
「ええ、アイリス。あなたも相変わらずね」
マリア様の口調も、いつになく砕けている。
聞けば二人は、王都の外れの寺院で共に奉仕活動をした仲だという。ハヤトさんが私を攫ったあの日、マリア様が「急用ができたわ」と飛び出していくのを、心配そうに見送っていたのが彼女だったそうだ。湾岸地区の火災の後も、献身的に負傷者の手当てに奔走し、この聖堂に集う人々から絶大な信頼を得ていた。
「それで、こちらの方たちは?」
アイリスの屈託のない瞳が、まっすぐに私とセラとヴォルフラムを捉える。
「ええ、私の大切なお友達よ」
マリア様はそう言って、悪戯っぽく私に片目を瞑ってみせた。
その日、私たちはアイリスを手伝うことになった。
傷の手当て、食事の配給、そして子供たちの遊び相手。
マリア様は聖女の威厳などかなぐり捨て、ローブの裾をたくし上げ、子供たちと一緒になって泥だらけで駆け回っている。その弾けるような笑い声は、私が知るどの彼女よりも、ずっと自然で幸せそうに見えた。
陽が傾き、聖堂の鐘が夕刻を告げる頃。
私たちは屋根裏部屋で、アイリスが淹れてくれた少し苦いハーブティーを飲んでいた。開け放たれた窓から、黄金色に染まる港とカモメの鳴き声が届く。
「……ありがとうございます、マリア様」
アイリスがぽつりと呟いた。
「あなたが来てくれて、みんな本当に喜んでいたわ」
「ふん。気まぐれよ」
マリア様はそっぽを向くが、その耳は少しだけ赤く染まっている。
和やかな空気が、途切れたのはその時だった。
帰る支度を始めた、まさにその瞬間。
アイリスが、マリア様のローブの袖をそっと引いた。すぐ側にいる私やセラさんに聞こえぬよう、声を潜めて囁く。
「……マリア様。後ほど、二人きりで少しだけお話ししたいことがございます」
太陽のような笑顔はそのままに、その瞳の奥に冷たい光が一瞬宿るのを、マリアは見逃さなかった。
マリア様は一瞬目を見開いたが、すぐにいつもの優雅な微笑みに戻る。
「あら、そうなの? ……でも、期待には応えられないかもしれませんわよ?」
甘い声には、鋭い牽制の響きが帯びていた。
「その場合は……仕方ありませんわね」
アイリスもまた、意味ありげに微笑み返す。
「では、後ほど」
マリア様は、マルコの商館に隣接する高級酒場の名を告げた。帝国と王国の諜報員が共同管理する、厳重な秘密結社。その合言葉だけを静かに囁く。
「ここで、お待ちしておりますわ。……それ以外の場所では無理ですよ」
「ええ! ぜひ、お伺いしますね!」
アイリスは、再び完璧な太陽の笑顔で応えた。
◇◆◇
私たちが帰った後、屋根裏部屋にはアイリス――否、リゼットが一人残っていた。
蝋燭の揺れる光が、彼女の顔に深い影を落とす。太陽の仮面は剥がれ落ち、そこには蛇のように冷徹な諜報員の素顔があった。
(……察されたか。あの聖女、やはり食えない女だ)
帰り際のやり取りで、マリアが自分の正体に薄々感づいたことを、彼女は確信していた。
もう、このまま「シスター・アイリス」でいられる時間は長くない。
『蜘蛛の巣』。そして、あの聖女自身の手駒。見えざる包囲網が、この港町をじりじりと狭めているのを、彼女の肌は感じ取っていた。
(……逃げるか)
だが、どこへ?
アルビオン本国に戻ったところで、待っているのは嫉妬深い上官たちの冷たい視線だけだ。
彼女は、優秀すぎた。
どんな困難な任務も一人で完璧にこなし、その手腕は常に組織の期待を上回った。だが、その有能さは、徒党を組んで互いの地位を守ることに汲々とする上層部にとっては、ただ煙たいだけの存在でしかなかった。
気が付けばデニウスやバルドルのような脳筋たちの後始末を押し付けられ、こんな文明の低い国の辺鄙な港町で飼い殺しにされた。
(……デニウスもバルドルも、もうおしまい。それに無能な上役どもに、このまま良いように使われるのも、やってられない……)
ふと、昼間の光景が脳裏をよぎる。
リナという、底の知れない少女。
グランという、理知的な宰相。
そして何より、聖女マリア。彼女は自分と同じ種類の人間だ。目的のためなら手段を選ばず、盤面全体を動かすことを愉しむ者。
だが、決定的に違う。彼女の周りには、彼女を信じ、支える者たちがいる。
(……いっそ、このまま本当にシスター・アイリスとして一生を終えるのも悪くない。……けれど)
リゼットは窓の外の闇を見つめ、やがてふっと息を吐き、自嘲気味に笑った。
その瞳に、新たな闘志の炎が宿る。
(……いいや。もっと面白い場所を見つけてしまったじゃないの)
あの女狐の懐に飛び込み、その力を借りて、自分をこんな場所に追いやった無能な上役どもに一泡吹かせてやる。その方が、よっぽど面白そうだ。そう感じてしまったからこそ、気が付けば声をかけてしまっていた…。
彼女は決断した。
そののち、リゼットは音もなく夜の街へとその身を滑り込ませた。
◇◆◇
秘密結社の奥の一室。
マリアは一人、グラスを傾けていた。琥珀色の液体がランプの光を弾いてきらめく。
やがて扉が静かに開かれ、純白の修道服――アイリスの姿のまま、彼女は入ってきた。
「あら。本当に一人で来たのね」
マリアの声は、氷のように冷たい。
「ええ! マリア様とお話しできるなんて、とても光栄ですもの!」
リゼットは満面の笑みで、少しも悪びれずにマリアの向かいの椅子に腰を下ろした。その瞳は、純粋な好奇心できらきらと輝いている。
マリアはその完璧な仮面に内心舌打ちしながらも、表情には出さない。
「それで? シスター・アイリス。わざわざこんな場所まで何の御用かしら」
その声は、修道女ではなく、正体不明の諜報員へ向けられていた。
「まあ、怖いお顔。……私、マリア様ともっと仲良くなりたいなって、ずっと思っていたんです」
リゼットは少女のように頬を染め、はにかんでみせる。
「王都では、ゆっくりお話しする時間もありませんでしたから。……だから、今日はお誘いしましたの」
あまりに天然なその返答に、マリアの完璧なポーカーフェイスが、ぴくりと引きつった。
(……この女……!)
こちらの揺さぶりを、全て柳に風と受け流す気か。
マリアはグラスを置き、悪魔が囁くように、甘く抗いがたい提案を口にした。
「……ねえ、アイリス。あなた、私に仕える気はないかしら?」
唐突なスカウト。
普通のシスターなら驚き、戸惑うはずだ。
だが、リゼットは目をぱちくりさせた後、心の底から嬉しそうに、ぱあっと顔を輝かせた。
「まあ! 本当ですか!? 聖女様にお仕えできるなんて、夢のようですわ!」
その完璧なすれ違いの喜劇に。
マリアは、ついに観念したように深いため息をついた。
この女は、自分が「何処かの諜報員」だと認めないまま、この交渉を進めるつもりなのだ。
(……面白いじゃないの)
マリアの唇に、ようやくいつもの、したたかな笑みが浮かぶ。
「ええ、そうよ。だから、これからよろしくね? ……私の、可愛い『シスター』さん?」