第194話:『黄金港の凪』
静まり返ったポルト・アウレオの港。
朝靄のヴェールがゆっくりと剥がされ、昇り始めた太陽が停泊する船体を白銀に染め上げる頃、それぞれの役目を終えた者たちが、新たな航路へと旅立つ時が来た。
最初に動いたのは、帝国海軍が誇る鋼の猟犬、エンリコ少将だった。
纜が解かれ、重い錨が引き上げられる音と共に、彼が指揮する高速蒸気揚陸艦が、夜明けの港を滑り出す。その船上には、王国軍再建という重責を担うライナー・ミルザの姿があった。
「――では、またお会いいたしましょう」
タラップが外される直前、ライナーは残された者たちへ向き直り、背筋を伸ばしたまま、深く長い一礼を捧げた。その横顔には、もはや迷いの影はなく、決意に満ちた強い光が宿っている。
船は一路、王都アルカディアへ。次に戻ってくるときは、アルフォンス新王とグラン宰相を乗せ、大陸の未来を決める会談のため、再びこの地へ戻る約束を残して。
次に港を離れたのは、少し古びた、しかし頑健な商船だった。
甲板には、安堵の表情を浮かべた掃除婦や船員たちが集まっている。彼らの手には、私からの感謝の印である、ずしりと重い礼金の革袋が握られていた。
「リナちゃん! 元気でな!」
「またいつでもサンタ・ルチアに遊びに来いよ!」
遠ざかる船影から、いつまでも陽気な声援が波間を渡ってくる。その光景を、ファルコがマストの陰から静かに見守っていた。彼の任務もまた、サンタ・ルチアでの新たな『蜘蛛の巣』の構築だ。
やがて、港には三隻の帝国船だけが残された。
高速巡航艦。拿捕された『海燕』。そして巨大な輸送船。
“海竜”ロッシ中将の、空気を震わせるほどの号令が響き渡る。
「――出港だ! 我々はアクア・ポリスへ帰還する!」
号令一下、三隻の船団はゆっくりと港を離れ、帝国の軍港へとその巨体を向けた。
あれほど賑やかだった埠頭から人の声が消え、カモメの鳴き声と、岸壁を洗う穏やかな波音だけが残される。
私、セラ、ヴォルフラム、マリア、そしてハヤト。どこかに潜むゲッコー。
エンリコ少将が戻るまでの数日間、私たちはこの黄金の港で、束の間の休息を得ることになった。
◇◆◇
その日の午後。
私とセラさんは、普段の機能的な服装とは違う、柔らかな生地が肌を撫でるワンピースに着替えて街を歩いていた。裕福な商人の家に生まれ、物見遊山に訪れた姉妹。それが、今の私たちの「役」だ。
「まあ、リナ。あちらのレース、素敵ですわね」
「本当ですね、お姉様。少し見ていきましょうか」
完璧な貴族令嬢の言葉遣いで囁き合う私たちの数歩後ろを、ヴォルフラムさんが護衛として影のように続く。そのあまりに真剣で隙のない佇まいは、街の陽気な雰囲気から少しだけ浮いていた。
ふと、通りの向かいの屋根の上で、黒いマントがひらめいた気がした。
『――待て、悪党!』
鋭い声が鼓膜を打ったかと思うと、市場のテントが大きく揺れ、色とりどりの果物が派手に転がり落ちる。雑踏が一瞬そちらに目を向けたが、すぐに何事もなかったかのように人の波に溶けていった。
「……セラさん。気のせいでしょうか、今……」
「さあ? 何かあったかしら。……あら、あちらのカフェ、とても雰囲気が良さそうですわよ」
セラさんは優雅に微笑むと、私の手を引いてそのカフェのテラス席へと向かう。……見なかったことにしよう。
テラス席の向こうには、太陽の光を浴びて無数の宝石のようにきらめく海が広がっていた。
「チョコレートケーキと、カフェモカを二つお願いします」
私が注文すると、若いウェイターの青年は「か、かしこまりました!」と声を裏返らせ、手と足が同時に出る奇妙な歩き方で厨房へ消えていく。その厨房の中から、無言の圧力を感じた気がした。
運ばれてきたケーキとカフェモカは、震える手で、まるで祭壇に供物を捧げるように、そっとテーブルに置かれた。隣の席の常連客らしき男が、呆れたように笑う。
「おいアントニオ。奇麗なお嬢さん方だからって、緊張しすぎだろ」
甘いケーキに舌鼓を打っていると、不意にテラスの下から酔っ払いの怒声が響いた。
「うおーい! 俺の酒がねえじゃねえか! 早く持ってこーい!」
千鳥足の男が、こちらによろよろと近づいてくる。ヴォルフラムさんの眉が、ぴくりと動いた。
だが、彼女が動くより早く、男の姿がふっと掻き消えた。まるで最初からそこに誰もいなかったかのように。ただ、遠い路地裏から蛙が潰れたような短い声が聞こえた、気がした。
「……今……」
「……リナ、海がとても綺麗ですわよ」
「……ええ、そうですね。とても……」
私は、もう一度、見なかったことにした。
この穏やかな休日には、気持ちをおおらかにもって、細かい事は気にしない技術が、何より重要らしかった。
私は温かいカフェモカを一口啜る。甘い香りと、穏やかな潮風が混じり合った。
「……きれい、ですね」
ぽつりと漏れた言葉に、セラさんも静かに微笑んで頷く。
私たちはただ、目の前に広がるどこまでも青い世界を、静かに、緩やかに見つめていた。