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ようこそ、最前線の地獄(職場)へ。 私、リナ8歳です ~軍師は囁き、世界は躍りだす~  作者: 輝夜
序章:『勘違いエリートコースの果ては、地獄の最前線でした』
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第2話:『小さな帳簿係と院長の涙』


「はぁ……。どうしましょう。今月も、こんなに赤字だわ……」


夜更け、院長室のドアの隙間から、か細く、絞り出すような声が漏れてきた。私は寝付けない子供に飲ませるための白湯を手に、その前でぴたりと足を止める。ドアの磨りガラスには、一本のろうそくの光に照らされた院長先生の影が、小さく揺らめいていた。

私たちの母親代わりである彼女が、毎晩こうして一人、孤児院の財政に頭を抱えていることを、私は知っていた。戦争による物価の高騰は情け容赦なく、弱い者から順にその息の根を止めにかかる。この孤児院も、例外ではなかった。


(……面倒くさい。すごく面倒くさいけど、見て見ぬふりはできないよなぁ……)


前世の記憶があるからといって、聖人君子になったわけではない。むしろ、三十年間も社会の荒波に揉まれたせいで、面倒事は徹底的に避けて通りたいタチだ。でも、日中、私に無邪気に笑いかけてくれる弟や妹たちの顔、そして、自分の食事を削ってまで私たちにパンを分け与えようとする院長先生の疲れ切った横顔を思い浮かべると、どうしても踵を返すことができなかった。このままでは、このささやかな家が、本当に潰れてしまう。


コン、コン。

「院長先生。夜分にすみません、リナです」

「あらリナ。どうしたの? もう寝る時間でしょう?」

ドアがゆっくりと開かれ、驚いた顔の院長先生が現れた。その目の下には、濃い隈が刻まれている。

「眠れない子がいるので、お白湯さゆを。……あの、院長先生。もし、もしよかったらですけど、その帳簿、少しだけ見せてもらえませんか? 私、計算は得意なんです。何か、お手伝いできることがあるかもしれないから」


おずおずと、できるだけ子供らしく申し出ると、院長先生は一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。だが、その瞳の奥には、藁にもすがりたいという切実な色が浮かんでいた。

「……ありがとう、リナ。でも、あなたのような子供に見せるものでは……」

「大丈夫です。数字を見るだけですから」

私の妙に落ち着いた声に何かを感じ取ったのか、彼女はため息を一つつくと、私を部屋の中に招き入れた。


古びた木の机の上には、インクの染みと涙の跡が染みついた、何冊もの羊皮紙の帳簿が山積みになっていた。

そこからが、私の独擅場だった。前世の社畜根性が、八歳の身体の奥底からむくむくと鎌首をもたげる。


(うわっ、ひどい……。ただの足し算引き算、出納帳ですらないじゃない。これじゃあお金の流れなんて分かるわけない。せめて、前世で経理部の新人に叩き込んだ、超簡易版の複式簿記もどきで整理しないと……!)


私は近くにあった使い古しの紙の裏と炭の芯を借りると、サラサラと数字を書き連ねていった。支出を食費、光熱費、修繕費、雑費と項目別に分け、月ごとの推移が一目でわかる簡単なグラフを作る。院長先生が、私の肩越しにそれを覗き込み、息を飲むのが分かった。


「院長先生。まず、このベイカーさんのパン屋からの仕入れ値ですが、ここ三ヶ月で急に上がっています。市場の相場より二割も高い。これはおかしいです」

「え? でも、ベイカーさんは先代からの付き合いで……」

「その付き合いに胡坐をかいて、足元を見られているんです。次に、まきの購入先。乾燥が不十分な薪を掴まされています。重さでごまかして、実質的な値段を吊り上げている。悪質です」

「そ、そんな……」


畳みかけるような私の指摘に、院長先生は顔を青くする。だが、一番の問題は食費だった。

「一番大きいのは、野菜の仕入れです。八百屋のマルクさんの店は便利ですが、仲介料でかなり高くなっている。少し遠いですが、農家のゴードンさんのところから直接買えれば、おそらく三割は安くなります」

「で、でも、ゴードンさんは……その、ひどい訛りで、何を言っているのかさっぱり……」

院長先生が困り果てた顔で言う。そう、そのゴードン爺さんは、帝国でも特になまりが強いことで有名な辺境の出身で、彼とまともに会話ができる者はこの街にほとんどいなかった。


「大丈夫です」

私は、にっこりと笑って見せた。

「私、ゴードンさんのお話、なぜか全部わかりますから」


翌日、私は院長先生の手を引いて、街外れのゴードンさんの畑を訪れた。

案の定、ゴードン爺さんは、他の人間には呪文か獣の咆哮にしか聞こえないような、独特のイントネーションと単語でまくし立てた。

「んだおめ達は! ワシんとこの野菜はちぃとばかし上等で、そんじょそこらのひよっこに売るもんでねぇだよ!」

院長先生が完全に怯えている横で、私は完璧にその言葉を理解し、通訳し、そして交渉を始めた。


「はじめまして、ゴードンさん。私たちは聖リリアン孤児院の者です。あなたの作る野菜が、この街で一番太陽の味がすると伺って参りました」

前世で培った営業スマイルと人心じんしん掌握しょうあく術(というほど大したものではないが)を駆使する。まずはこちらの窮状を切々と訴えて同情を誘い、次に「子供たちのために」という大義名分を掲げ、最後に「もしお安くしていただけるなら、今後、孤児院の野菜はすべてあなた様から購入する、長期契約を結びたい」と、実利をちらつかせた。


交渉は、驚くほどスムーズに進んだ。ゴードン爺さんは最初こそ頑固だったが、私の言葉に目を丸くし、やがて「おめぇみてぇなちっこいのが、ワシの言葉をわかるだか。したけてったいしたもんだ」と相好を崩し、最終的には市場価格の四割引きという破格の値段で、野菜を卸してくれることになったのだ。


帰り道、目を丸くしたままの院長先生が、何度も私の顔を見ては、信じられない、というように首を振っていた。

そして、その一部始終を、偶然通りかかった顔見知りの商人が見ていた。

彼は口をあんぐりと開けて立ち尽くしていたが、やがて私たちの元へ駆け寄ってくると、興奮した様子で叫んだ。

「お、おいおい院長さん! あんたんとこのリナちゃん、ただもんじゃねぇぞ! あの偏屈なゴードン爺さんを手玉に取るとは! 天才だ! いや、まるで神童じゃねえか!」


その噂は、乾いた土地に染み込む水のように、あっという間に帝都の隅々へと広がっていった。

一人の孤児が持つ、ささやかで地味な才能。それが今、帝国の巨大な運命の歯車と、静かに噛み合おうとしていた。


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― 新着の感想 ―
作者の紹介文からも感じ取れますが、その言葉一つ、言い回し一つに登場人物の心情と状況が目に浮かびます。私も何千という話を読んで参りましたが、読み始めて感銘を受けたのは久しく、作者のセンスとお人柄が伺えま…
ゴードン爺さんは天命を全うしたとき「ワシがあいつを育てた」と言い残す権利を得ました
30年しか生きて無くて30年荒波に揉まれたってことは、生まれてすぐ捨てられて孤児院内でも居場所が無く学校では虐められようやく社会に出てもブラック社畜だったということでOK? そんな奴がよくこんなひねず…
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