第193話:『黄昏の港、別れの船出』
最高顧問。
その重々しい称号が、まだ耳の奥で鈍い残響となっていた。息つく間もなく、合同軍議は次の段階へと雪崩れ込む。
テーブルに広げられた巨大な海図。その上を指が走り、両国の首脳と将軍たちの言葉が火花のように交錯する。緊張に満ちた空気の中、未来への航路が一本、また一本と引かれていった。
『――では、改めてここに宣言する!』
皇帝ゼノンの声が、『囁きの小箱』から金属的な響きを帯びて放たれる。厳粛な声は部屋の隅々まで染み渡り、窓ガラスを微かに震わせた。
『帝国と王国は、アルビオン連合王国の脅威に対し、正式な共同戦線を樹立する!』
『我が王国も、全ての力を以てこれに協力することを誓います』
アルフォンス新王の若々しい声が、力強くそれに続いた。
『具体的な内容は、改めて場を設けよう』皇帝はそう言うと、ロッシ中将に問いかける。『ロッシよ。条約締結の場を、軍港都市『アクア・ポリス』としたい。両国の首都の中間に位置し、警備も万全。これ以上の場所はあるまい』
『素晴らしいご提案です。我々も、ぜひそうさせていただきたい』
アルフォンスの同意を受け、歴史的な会談の舞台は、帝国の海の都に決した。
◇◆◇
宣言が終わるや否や、張り詰めていた空気が弾けた。将軍たちが一斉に立ち上がり、副官へ指示を飛ばす声、椅子が床を擦る音、羊皮紙がめくれる乾いた音で満たされる。
その喧騒を、一つの轟音が切り裂いた。
ロッシ中将が、巨大な拳で海図を叩きつけたのだ。
「――エンリコ!」
まるで海竜の咆哮のような声が響き渡る。
「はっ」
呼ばれたエンリコ少将が、人波を縫って音もなく進み出る。その静謐な動きが、周囲の熱狂とは対照的だった。
「貴官に使者の任を与える! その蒸気機関揚陸艦でライナー衛士長を王都まで送り届けよ! その後、アルフォンス陛下とグラン宰相をお迎えし、我がアクア・ポリスまでご案内するのだ! よいな!」
「御意に」
エンリコの返答は短く、凪いだ水面のようだ。そのあまりに重い任務にも、彼の蒼い瞳は微動だにしない。ただ静かな覚悟の色を宿して、深く頷いた。
「ライナー殿」
ロッシは、王国から来た実直な軍人に向き直る。
「アルフォンス陛下とグラン宰相より、貴官への伝言だ。『王都を不在にする間、国の守りを全権委任する』、と。……詳細は、王都の港に着いてから直接お聞きするように、とのことだ」
「……承知いたしました」
ライナーは硬い表情でその言葉を受け止め、一度だけ固く拳を握りしめた。主君からの信頼の重みが、その肩にずしりと圧し掛かる。彼は覚悟を決めた目で、再び深く頷いた。
最後に、ロッシは機関室から呼び出されたばかりのマキナの肩を、熊のような巨腕で鷲掴みにするように叩いた。バシン、と骨に響く音がして、小柄なマキナがたたらを踏む。
「マキナ局長! 貴様も俺と共にアクア・ポリスへ戻るぞ! 鹵獲兵器の解析も重要だが、それ以上に貴様の頭脳が必要なのだ! この『スレイプニル』を超える真の高速艇を造り上げる! そのための最高の舞台を、我がアクア・ポリスに用意してやる!」
その言葉に、マキナの目がカッと見開かれた。煤と油で汚れた顔に、獰猛な笑みが浮かぶ。
「へいへい、任せとけっての! ちょうどいい。『水中翼船』の構想が頭ン中でまとまってきたとこだ!」
彼女はニヤリと歯を見せ、私に向かって片目を瞑る。
「リナ、またアクア・ポリスでな! 今度こそ、もっとスゲーもん見せてやるよ!」
仮面の下で、私は小さく頷き返した。
こうして、慌ただしく船団の再編が布告された。
私たちが乗ってきた『鋼のトビウオ』改め『スレイプニル』は、エンリコ少将の指揮下で外交使節船となる。
鹵獲したアルビオンの巨大輸送船と拿捕した『海燕』は、協力を申し出た船員たちの手で、ロッシ中将の旗艦『アルバティン』に護衛されアクア・ポリスへ向かう。
それぞれの船に、それぞれの航路が示されたのだ。
全ての采配が終わり、熱気を孕んだ喧騒が嘘のように引いていく。
ふと見れば、窓の外は燃えるような黄金色の夕陽が港を染め上げていた。マストの影が長く伸び、カモメの声が遠のいていく。
遠くから、一日を終える港の鐘が、ゴォン、と長く、低く響き渡った。
私の傍らには、いつもと変わらぬ表情のセラとヴォルフラム、影のように佇むゲッコー、そしてマリアとハヤトがいる。
我々は、エンリコ少将が新王たちを迎え、再びこの港へ戻るまで、この地に留まることになった。
嵐の前の、束の間の凪。
与えられた短い安息の時間だ。
それぞれの船の出港は、明日の早朝と決まった。