第191話:『両国の天秤』
マルコが手配した商館の一室。
夕暮れの光が差し込む窓は固く閉ざされ、古い木材と革の匂いが静かに漂っていた。
大陸の未来を左右する三つの首都が、今、一つのテーブルを囲んでいる。
ここポルト・アウレオに集った帝国軍首脳。
そして、テーブルに置かれた二つの『囁きの小箱』の向こう側。帝都ガレリアの皇帝と宰相。王都アルカディアの新王と宰相。彼らの気配が、声なき圧力となって部屋の空気を満たしていた。
銀の仮面の冷たさを頬に感じながら、私は『天翼の軍師』として口を開く。デニウス確保からアルビオンの脅威に至るまでの経緯を淀みなく報告し、彼を「生きた情報源」として活用する案を具申した。
言葉が途切れると、通信機の向こうで両国の首脳が同意を示す気配が伝わる。
「――結構。見事な判断だ、軍師殿」
皇帝陛下の満足げな声が、小箱から響いた。
報告を終えた私に、ロッシ中将がそっと目配せを送る。
「軍師殿、感謝する。後の軍事的な話は我々で進めよう。貴官はしばし、隣室で休息を」
「……御意に」
深く一礼し、私はセラと共に静かに部屋を退出する。重い扉が閉まると、中の声は壁の向こうに遠のき、世界が二つに隔てられたかのようだった。
◇◆◇
残された男たちの間で、本当の軍議が始まる。
ロッシ中将は一度固く目を閉じ、意を決したように深く息を吸い込んだ。
「……皇帝陛下。そして、アルフォンス陛下。これより、皆様に一つご報告せねばならぬことがあります」
彼の声は静かだったが、その一言一句に異様なほどの重みが込められていた。あの『狼の巣』で目撃した「現象」。崩れ落ちる天。それを止めた、小さな少女の祈り。
静かな語りが進むにつれ、通信機の向こうの空気が凍てついていくのが肌で感じられた。アルフォンス新王が息を呑む微かな音。皇帝陛下の沈黙が、部屋そのものを圧し潰すかのように重くのしかかる。
報告を終え、ロッシは乾いた唇を湿らせて、自らの見解を述べた。
「……あの方の力は、もはや我々人間の尺度で測れるものではありません。それは天災にも、福音にもなり得る。両国の未来のため、その扱いは最高レベルの機密とすべきかと存じます」
長い、長い沈黙が落ちた。針一本落ちる音すら許さない、濃密な静寂。
やがて、その沈黙を破ったのは、皇帝ゼノンの地を這うような低い声だった。
「……ロッシよ。そなたの報告、そして進言、しかと受け取った」
その声には、大陸の覇者としての揺るぎない決意が宿っていた。
「もはや、彼女は一国の軍師ではない。帝国と王国、両国の平和を左右する『調停者』。その存在は、我らが共同で護るべき大陸の至宝である」
『……同感です、ゼノン陛下』
アルフォンス新王の、若いが鋼のような芯の通った声が応じる。『彼女が望む平和のために、我々王国もあらゆる協力を惜しみません』
「――では、ここに決定する!」
皇帝の声が、宣言となって部屋を震わせた。
「『天翼の軍師』リナに、新たに『帝国・王国平和維持機構 最高顧問』の地位を与える! アルフォンス殿もそれで良いな?」
◇◆◇
再び部屋に呼ばれた私は、そのあまりに壮大な決定事項に、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
「……皇帝陛下! そのような大役、私にはとても……!」
仮面の下で唇が震える。思わず漏れ出た辞退の言葉に、通信機の向こうから温かく、しかし諭すような声が返ってきた。
『リナよ。これは命令だ。だが、そなたの自由を縛るものではない』
その声は、まるで父親が娘に語りかけるように優しい。
『むしろ逆だ。そなたという稀有な才能が、若さ故の不当な重圧に潰されることのないよう、我らが国としてそなたを守り、支えるための地位なのだ』
皇帝は一度言葉を切り、慈しむような響きを込めて続ける。
『もはや一人で全てを背負う必要はない。そなたが心置きなくその翼を広げられるよう、我らが最高の環境を整える。……具体的な支援については、追って正式な勅書にて示そう。今はただ、我らの信頼を受け取ってはくれぬか』
あまりに温かく、そして有無を言わせぬ言葉だった。
喉が詰まり、私はもはや頷くことしかできない。
こうして私の肩書は、また一つ、気恥ずかしくも重いものへと変わった。
だが、その重さは以前とは違う。信頼という名の温もりを、確かに感じていた。