第190話:『盾の告白と一年の誓い』
黄金の港に、朝の光が満ちていた。
甲高いカモメの声が潮風に乗り、遠くで船の出港を告げる鐘が朗々と響く。マルコが手配した商館の一室では、朝日がレースのカーテンを透かし、磨かれた床に揺らめく光の格子を描いていた。
私は窓辺に立ち、活気づき始めた港を眺めていた。しかし、目に映る賑わいとは裏腹に、昨夜の重苦しい密議の名残が、まだ部屋の空気に重く沈殿している。
カチャリ、と背後で澄んだ音がした。
「リナ様。紅茶が入りましたわ」
セラが淹れてくれた紅茶の芳香が、張り詰めていた神経をふわりと解きほぐす。だが、その香りに混じり、もう一つの気配が私の背中に突き刺さっていた。
影のように控えるヴォルフラム。彼女は昨夜から一言も発さず、ただ石像のように私の背後を守っている。その沈黙は、嵐の前の静けさのように息苦しい。
私は振り返り、彼女に手招きをした。
「ヴォルフラム。少し、話を」
心得たとばかりに、セラが無言で一礼し、音もなく部屋を出ていく。扉が閉まる静かな音を合図に、室内の空気が張り詰めた。
「……昨日のこと」
私は彼女の蒼い瞳をまっすぐに見据え、切り出した。
「デニウスが口にした『イリアーヌ』という名。……あなたの知る人なのね?」
問いは、静寂に鋭く突き刺さった。ヴォルフラムの肩が、微かに震える。固く結ばれた唇は色を失い、その視線は床の一点に縫い付けられた。長い沈黙が、彼女の心の葛藤を痛々しいほどに物語っていた。
やがて、絞り出すような声が、か細く響いた。
「……妹……でした」
「え……?」
「血の繋がりは、ありません。ですが、私にとっては……たった一つの、守るべき光でした」
ぽつり、ぽつりと紡がれる言葉は、過去への扉を開けていく。
アクア・ポリスの裏路地に落ちる陽だまり。自分を姉と慕ってくれた、太陽を映したような少女の笑顔。そして、すべてを奪っていった冷たい雨の夜。己の無力さゆえに失った光は、十年経った今も、決して癒えることのない傷として彼女の内にある。
その告白は、私の胸を強く締め付けた。
「……あの男が言う少女が、本当に私のイリアーヌなのかは、分かりません。……ですが」
彼女が顔を上げた。その瞳に涙はなく、十年という歳月をかけて研ぎ澄まされた、静かで昏い炎が宿っている。
「もし、万が一にも……。私は、この命に代えても……!」
「――ヴォルフラム」
激情に駆られる彼女の言葉を、私は静かに遮った。
「その気持ちは、痛いほど分かる。……でも、今はまだ、その時ではないわ」
「しかし!」
食い下がる彼女に、私は続ける。
「アルビオンは、我々がまだ知らない力を数多く持っている。鉄砲もその一つに過ぎないはず。無策で乗り込んでも、返り討ちに遭うだけ。……あなたを、無駄に死なせるわけにはいかない」
私の言葉に、彼女はぐっと唇を噛みしめた。悔しさに、その拳が白くなる。
私は彼女の前に進み出ると、その大きく、騎士として鍛えられた冷たい手を、両手でそっと包み込んだ。
「約束するわ」
その瞳を、まっすぐに見つめ返す。
「必ず、手を打つ。そのための力を私たちが手に入れるまで、どうか待っていて。……二年……いいえ、一年。一年だけ、私に時間をちょうだい」
それは、軍師としての打算ではなく、一人の友としての、心からの誓いだった。
私の言葉に、彼女の瞳から、張り詰めていた光がふっと揺らぐ。堪えきれなかった一筋の雫が、その白い頬を静かに滑り落ちた。
彼女は何も言わず、ただ、こくりと深く頷いた。
◇◆◇
その日の午後、ロッシ中将が私の部屋を訪れた。
これから帝都と王都を繋いだ、緊急の合同軍議が始まると言う。
「軍師殿。まずは貴官から、これまでの経緯とデニウスの処遇に関する具申を、両陛下に直接ご報告願いたい」
「……承知いたしました」
私が頷くと、ロッシ中将は僅かに視線を彷徨わせ、どこかぎこちない口調で続けた。
「……その後、両陛下と我々軍の者だけで、今後の軍事的な方針を詰める時間が必要になる。……その間は、席を外し、少し休息を取っていてはくれぬか」
彼の双眸に宿る不器用な気遣いに、私は静かに頷き返した。
↓【ネタバレ全開】リナちゃんとの漫才や、裏話はこちらで!
『【あとがき集】天翼の軍師様は作者に物申したいようです』