第189話:『落日の部屋』
マルコが手配した商館の一室は、沈黙に満たされていた。
窓から射す日が床に鋭い影を刻み、宙を舞う塵を金色にきらめかせる。だがその光さえ、部屋に淀む息苦しさを拭うことはできない。
テーブルを囲むのは、大陸の運命を左右する者たち。
腕を組んだロッシ中将は彫像さながらに微動だにしない。扇で口元を隠すマリアの瞳だけが、獲物を品定めするように冷たい光を宿している。そして私の背後。ヴォルフラムの気配は音もなく研ぎ澄まされ、触れれば切れそうなほどに張り詰めていた。
やがて重い扉が軋み、沈黙を破る。
二人の帝国兵に両脇を固められ、一人の男が引き据えられた。
デニウス・ラウル。
かつての商人の余裕は見る影もなく、すべてを失った男の昏い絶望がその顔に深く刻まれている。彼は部屋の中央の椅子にどさりと落とされると、虚ろな目で床の一点を見つめた。
ロッシ中将が顎をわずかに動かし、私に合図を送る。
蝶のマスクの下から、凛とした声が静かに響いた。
「……デニウス・ラウル」
名を呼ばれ、男の肩がびくりと震える。
「あなたに聞きたいことは山ほどあります。……ですが、その前に」
一度言葉を切り、マスクの奥から彼の瞳を射抜く。
「あなたの方から、話しておきたいことは?」
それは尋問官の詰問ではない。ただ真実を求める、静かな問いかけだった。
デニウスはしばし虚空を見つめていたが、やがて観念したように乾ききった唇を開いた。
「……もし、私がすべてを話せば……一つだけ、願いを」
「情報の価値次第です」
丁寧だが一切の情を排した声に、彼は力なく笑った。
そして堰を切ったように語り始める。アルビオン連合王国の壮大な野望。大陸の富と覇権を狙う、緻密でおぞましい侵略計画の全貌。
そして、彼自身がその非道に手を染めた、たった一つの理由を。
「……故郷に、病に伏せる少女がいます。私と、私の家族が……大恩を受けた子だ」
彼の声は、ひどく掠れていた。
「イリアーヌ……。あの子も、癒やしの力を持っていた。だがその力は王の病を和らげるためだけに搾取され続けている。日に日に衰弱していくあの子を……!」
その名が紡がれた瞬間、背後で微かな金属音が響いた。
ヴォルフラムの籠手が強く握りしめられ、鎧がきしむ音。隣では百戦錬磨のロッシ中将までもが、わずかに眉を寄せている。
ヴォルフラムは声一つ立てない。ただその視線が、デニウスの背に突き刺さっていた。
「あの子を……イリアーヌを、助けたい……!」
いつしか彼の瞳から、涙が止めどなく溢れていた。
椅子から崩れ落ち獣のように床に這いつくばると、床に額を擦り付けた。
「……あの子を、助けてやってくれ……! そのためなら、俺の命など……!」
部屋を支配するのは、男の嗚咽と、張り詰めた沈黙。
騎士姫の装束に身を包んだ私は、その無様な姿を静かに見下ろしながらも、意識の半分は背後で息を殺すヴォルフラムへと向いていた。
「デニウス・ラウル。話は伺いました。彼を」
冷静な声で兵士に促す。
男が絶望の表情のまま引きずられていくと、私は一同に向き直った。
「――皆様にご提案があります」
すべての視線が、私に注がれる。
「この男の情報の価値は計り知れません。処刑は簡単ですが、あまりに惜しい」
扇がぴたりと動きを止め、マリアが氷の刃のような声で言った。
「ええ、全くですわね。……ですが信用できると? 虫の良い命乞いでしょうに」
「ええ、だからこそ」と私は応じる。「彼を『影の部隊』の監視下に置き、生きた『情報源』として活用するのです。アルビオンの内情を知ることは、私たちにとって最重要事項と言っても良いでしょう。協力姿勢でその価値を証明し続けるなら、処遇を改めて検討する余地も生まれましょう」
その提案は、どこまでも丁寧な言葉で紡がれた、冷徹で実利的な判断。
私はロッシ中将へと視線を移す。
「……閣下。ご承認いただけますか。最終的な裁可は陛下に仰ぐべきですが、まずは現場の最高指揮官である閣下のご判断を」
ロッシは腕を組んだまましばし黙考し、やがて重々しく頷いた。
「……よかろう。理に適っている。俺からも皇帝陛下に進言する」
「感謝いたします。彼の願い……イリアーヌという少女の件は保留とします。すぐに我々が介入できる問題ではない。……ヴォルフラム、今はそれでいいですね?」
唐突に名を呼ばれ、彼女はハッと我に返ると、動揺を押し殺して力なく頷いた。
「……はっ。……軍師殿の、ご判断に……従います」
その声の微かな震えには、気づかないふりをした。
「優先すべきはアルビオンの脅威への対応です。これはもはや、私や皆様だけで判断できる問題ではない。……ロッシ中将、セラさん、マリア様。帝都と王都を繋ぎ、両国の首脳を交えた緊急合同会議の開催を要請いたします。その場で改めて、今後のすべてを決定すべきと考えます」
戦いの舞台は、血と硝煙の戦場からインクと謀略が渦巻く政の世界へと戻る。
黄金の港に集った者たちの、束の間の休息は終わりを告げた。
一同が退出した後も、部屋にはヴォルフラムだけが立ち尽くしていた。
西日が彼女の鎧を赤く染めている。
その蒼い瞳は、もはや目の前の現実を映してはいなかった。
意識は遠い過去へと沈み、十年前の雨に濡れたアクア・ポリスの路地裏へと帰っていく。
無力な十一歳の少女だった、あの日の自分へ。
敵であった男が吐き出した、一つの名前。
『イリアーヌ』
その響きだけが、あの頃の彼女にとっては、世界のすべてだったのだ。