第187話:『静かなる礎、夜明けへの航路』
ポルト・アウレオへと着港する、前日の夜。
『鋼のトビウオ』は穏やかな海を滑り、船底を撫でる波音だけが、ゆりかごのように心地よく響いていた。
ロッシ中将の船長室。その重厚な扉に、乾いた音が三度、響いた。
「……入れ」
中からロッシが応えた声は、いつになく静かだった。
扉を開けて入ってきたのはヴォルフラムだった。彼女は音もなく内へと進み、ランプの灯りの下に立つロッシの前に、寸分の乱れもない姿勢で直立した。
ロッシは海図から目を離さない。その指先がゆっくりと羊皮紙の上を滑り、ある一点で止まっていた。ランプの揺れる光が、指揮官としての厳しさとは違う、深い思索に沈む横顔に濃い影を落としている。
「……ヴォルフラムよ」
海図を見つめたまま、ロッシが問うた。
「ゲッコーという男……お前は、どう見る」
その問いに、ヴォルフラムは僅かに目を伏せた。
脳裏に焼き付いている。血と硝煙の匂いが満ちた『狼の巣』。リナ様の側に寄り添っていた黒い背中。敵司令官の腕を、水が流れるような動きで切り伏せた無駄のない体捌き。あの混沌の只中で、彼の瞳だけが氷のように冷静だった。
「……正直に申し上げて、底が見えません。影のように気配を消したかと思えば、嵐のように現れる。私の知る、いかなる兵とも異なります」
「初めて行動を共にした時よりその動きには無駄がなく、常に最短、最善を選び取っている様に私には見えます」
彼女は自らが目撃した事実を、淡々と、しかし正確に紡いでいく。敵将を赤子のようにあしらった戦闘技術、常にリナ様の安全だけを思考の軸とする動き、そのすべてを。
「……そうか」
ロッシは静かに頷き、目を閉じた。今度はセラたちから『囁きの小箱』を通じて届いていた断片的な報告が、彼の思考の中で組み上がっていく。
「聖王都で聖女殿たちが迷いの霧の中にいた時、あの男はいち早くサンタ・ルチアに乗り込み、軍師殿の潜入先を突き止めた。そして……沖へ向かう敵船へ、ただ一人で飛び移ったと」
その声は、まるで遠い伝説を語る吟遊詩人のように、静かに室内に響いた。
「……そして、狼の巣で俺は船から見ていた」
ロッシの声が、囁くように低くなる。ランプの炎が、彼の瞳の奥で揺らめいた。
「全てが終わり、誰もが奇跡に呆然とする中、あの男だけは最善を見極めて、とどまること無く動き続けていた。崩れ落ちるやもしれぬ中にあって、武器庫や周囲の建物を躊躇なく駆け抜け...羊皮紙の束を、更にその混乱の中でアルビオンの新型銃までも、持ち出してみせたのだ」
ヴォルフラムは息を呑んだ。自分はリナ様を守るのに必死で、そこまで考えることはできなかった。
「あの混沌の中、彼だけが冷静に次の一手を見据えていた。……天翼の軍師殿が、彼を傍に置かれる理由。それが、俺にもよく理解できた」
飾り気のない言葉が、だからこそ重くヴォルフラムの胸に響いた。彼女は深く、静かに頷く。
「……下がって良い」
「はっ」
一礼し、ヴォルフラムは音もなく部屋を辞した。
◇◆◇
一人になった船長室で、ロッシは公式報告書の『ゲッコー』の功績欄を、ペン先で軽く叩いた。
『軍師殿の護衛及び情報収集任務を、忠実に遂行』
紙の上に踊る紋切り型の文句。これでは何も伝わらない。
(……ふん。だが、それでいい)
彼の真の功績は、歴史の表に刻まれるべきではない。
ロッシは新たな羊皮紙を広げ、皇帝陛下への極秘の親書を認めた。ペンが紙を引っ掻く音だけが、静寂に満ちる。
『――ゲッコー殿の働きなくして、此度の軍師殿の奪還はあり得ませんでした。彼の冷静な判断力と帝国への揺るぎない忠誠心は、一個師団にも値すると、このロッシ、断言いたします』
ペンを置き、ロッシは長く息を吐いた。
ゲッコー。あの無口な影の男。その功績が歴史に記されることはないだろう。だが、その静かなる働きこそが、帝国の未来を繋ぐ最も強靭な礎なのだ。
◇◆◇
様々な情報と思考を胸に収め、ロッシは一人、艦橋に立った。肌を撫でる夜風が、潮の香りを運んでくる。
彼は悟っていた。リナという存在は、もはや強力な駒などではない。帝国、いや、大陸の未来そのものを左右する「現象」なのだと。そして、この現象を正しく導き見守ることこそが、自分たち旧世代の軍人に課せられた最後の務めなのだと。
彼は再び宰相と皇帝に通信を入れる。軍事報告ではない。
慎重に言葉を選び、リナが起こした「常識を超えた現象」を、誇張なく、見たままの事実として伝えた。
そして、自らの見解を添える。
「この力は、制御不能な天災にも、全てを救う福音にもなり得ます。故に、その扱いは最高レベルの機密とし、我々軍部も最大限の敬意と慎重さをもってあの方に接するべきと進言いたします」
◇◆◇
報告を終え、ロッシは全乗組員に改めて厳命した。
「あの島で見たことは、全て幻だ。忘れろ。いいな!」
海兵たちの顔に畏怖と困惑が浮かぶ。だが、彼らは唾を飲み込み、力強く頷き返した。
ロッシは艦長に視線を送る。
東の空が白み始め、水平線が黄金色に染まっていく。
夜の闇を振り払うように、『鋼のトビウオ』は光の海原へと、その進路をポルト・アウレオに定めた。
船内では、ヴォルフラムがリナの眠る船室の扉を、静かに見守っている。
そして艦橋で、ロッシはその瞳に夜明けの光を映しながら、まだ見ぬ時代の、全く新しい海戦の始まりを、静かに見据えていた。