第185話『海竜の軍議、沈黙の奇跡』
夜明け前の冷たい光が、巨大な墓標と化した『狼の巣』を白々と照らし始めていた。
安全な海域まで出た所で停泊させた『鋼のトビウオ』の甲板は、勝利の熱狂から一夜明け、潮風、そして乾いた血の匂いが混じり合う、重い静寂に包まれている。
“海竜”オルランド・デ・ロッシ中将は、夜通し続いた船の点検や後処理の喧騒がようやく収まった艦橋で、ただ一人、腕を組み佇んでいた。窓の外に広がる穏やかな海の表情とは裏腹に、彼の胸の内は昨夜からずっと、激しい嵐に見舞われている。
脳裏に焼き付いて離れないのだ。
あの大地を揺るがす崩落を、巨石の雨を、ただ一人で食い止めた少女の姿が。
それは彼が長年対峙してきたどんな荒波よりも、どんな海の伝説よりも、神々しく、そして清冽な光景だった。
「――中将閣下」
凛とした声にはっと我に返る。
いつの間にか、艦橋には主要な者たちが集まっていた。背筋を伸ばし佇むヴォルフラムの硬い横顔。機関室から駆けつけ、まだ油の匂いをさせているマキナ。そして、欠伸を隠そうともしないハヤト。
ロッシは内心の嵐を鋼の意志でねじ伏せ、指揮官の顔に戻った。感傷に浸る時間は終わった。
「……まず、帝都へ速報を入れる」
ロッシは『囁きの小箱』を手に取ると、簡潔に、しかし力強く告げた。
「こちらロッシ! 天翼の軍師殿の身柄、無事確保! 敵拠点『狼の巣』、完全に殲滅せり! ……以上だ! 詳細は後刻改めて報告する!」
通信の向こうで宰相が何かを問い返そうとする声を遮り、彼は一方的に通信を断つ。まだ、あの奇跡をどう言葉にすればいいのか、彼自身にも分からなかった。
「……さて」
ロッシは集まった面々に向き直る。
「これより、戦後処理に関する軍議を始める」
その声は、いつもの豪放さが嘘のように低く、重かった。
◇◆◇
海図が広げられた作戦テーブルを、重苦しい空気が支配していた。
ロッシはまず、拿捕したアルビオンの巨大輸送船を顎で示す。その黒い船腹は『鋼のトビウオ』に横付けされ、帝国海兵たちが銃を構え厳重な警戒にあたっていた。
「鹵獲物資のリストを」
「はっ」
副官が読み上げる羊皮紙の内容に、その場の空気がさらに張り詰める。
「……銃、五百丁以上。弾薬、数万発。そして、未確認の連射式掃討兵器――コードネーム『鋼の蜂』一機……」
「……マキナ局長。貴官の見解は?」
ロッシに促され、マキナが腕を組んだまま一歩前に出た。彼女の足元には、既に分解された銃の部品が転がっている。
「……火薬の質が違う。うちの試作品より安定性と威力が段違いだ。銃の構造は単純なマスケット式、模倣は容易い。……問題は、あの『蜂』だ」
彼女の目に、技術者としての危険な光が宿る。
「あれは戦場のルールそのものを変える。一人の兵士が、一分間に数百の死をばら撒く。……剣や槍の時代を終わらせる、悪魔の発明品だよ」
その言葉に、ハヤトが「けっ」と嘲るように鼻を鳴らした。
「セコい真似しやがって。正々堂々、剣で来いってんだ。そんな鉄砲玉、俺にかすりもしねえ」
その揺るぎない自信に、しかしロッシは厳しい視線を向けた。
「貴官にはそうだろうな、『剣聖』殿。だが、普通の兵士にはどうだ? この『鉄のつぶて』は、熟練の騎士の命を、訓練もままならぬ新兵がたやすく奪うことを可能にする。……戦の顔つきを、根底から変えてしまう代物だ」
ロッシの熱のこもった言葉に、ハヤトは不満げに口をへの字に曲げた。
「……捕虜の尋問も進めています」
副官が続ける。
「バルドルは抵抗の末、失血死として処理。錯乱状態の副官は拘束。残る兵士の多くは、本国での食い詰め者や半ば強制的に徴用された者ばかりのようです。アルビオンの内情については、まだ固く口を閉ざしておりますが」
「うむ。続けさせろ」
ロッシは頷くと、ヴォルフラムとハヤトに視線を移す。
その目には、称賛と、そして鋼のような厳しさが同居していた。
「ヴォルフラム殿。貴官の働き、見事であった。主君を救わんとするその気迫、帝国軍人の鑑である」
その労いの言葉に、ヴォルフラムは深く頭を下げる。だが、その表情は硬いまま。リナを危険に晒したという自責の念が、まだ彼女の心を苛んでいるのが見て取れた。
次に、ロッシの視線が剃刀のように鋭くハヤトを射抜いた。
「――『黒曜の疾風』殿」
声の温度が、数度下がった。
「貴官の武勇が勝利の大きな要因となったことは認めよう。その功績は、帝国としても正当に評価し、王国へも報告する」
ハヤトが得意げに胸を張ろうとした、その瞬間。
「――だが!」
雷鳴のような一喝が、艦橋の窓ガラスをビリビリと震わせた。
「貴官の独断専行、そして命令無視は断じて許されん! 軍人ではないとはいえ、共同作戦に参加する者として、その身勝手さがどれほど危険な結果を招いたか、理解しているのか!」
その凄まじい気迫に、さすがのハヤトもたじろいだ。
ロッシは、ヴォルフラムを一瞥し、さらに言葉を続ける。
「貴官の無謀な突入は、我が帝国の至宝たるヴォルフラム殿を生命の危険に晒した。……この一点において、私は王国に対し、厳重に抗議せざるを得ん。……よろしいかな?」
それは、単なる叱責ではなかった。
ヴォルフラムを「帝国の至宝」と公言することで、彼女個人のみならず、軍師の側近たるその存在の重要性を内外に示す、指揮官としての強い意志表示だった。
ヴォルフラムはハッと顔を上げ、驚きと感謝の入り混じった目でロッシを見つめた。
ハヤトはぐっと言葉に詰まり、ばつが悪そうに視線を逸らすしかない。
「……ちっ。……悪かったよ」
不貞腐れたように、それだけを吐き捨てた。
◇◆◇
軍議が終わり、士官たちがそれぞれの持ち場へと戻っていく。
艦橋に再び静寂が訪れた。ロッシは一人、再び窓の外に目を向けた。
軍人としての務めは果たした。
だが、指揮官として、そして一人の人間としての、本当の戦いはこれからだ。
彼は、凪いだ海を見つめたまま、誰にともなく呟いた。
「……さて。……本当の話は、ここからだな」
その視線は、この船のどこかで眠っているはずの、小さな少女へと向けられていた。
海竜と呼ばれた男が、その長い軍歴で初めて遭遇した、理解不能な嵐。
彼はこれから向き合わねばならない。