第184話『軍師の緘口令、盾の涙』
轟音が止み、死地は静寂に沈んだ。
『鋼のトビウオ』の甲板から見つめる先で、『狼の巣』と呼ばれた入り江が土砂に埋もれていく。終末のような光景が、ただ網膜に焼き付いていた。
やがて船が安全な海域まで離脱すると、張り詰めていた空気がふっと緩んだ。あちこちから安堵の太い息が漏れ、それが熱を帯びた囁きに変わる。畏敬と興奮がない混ぜになった視線が、突き刺さるように私へと集まり始めた。
「……見たか、先ほどの……」
「軍師様は聖女様をも超える奇跡をお使いになる」
「大地さえも従えるとは……神の御業そのものだ……」
じわりと肌を焼く熱狂に、私は強い危機感を覚えた。このままではいけない。これ以上この力が人の目に晒されれば、もはや収拾がつかなくなる。
私は意を決し、風にはためくフードの端を押さえた。
船の最高指揮官であるロッシ中将のもとへ、迷いなく歩み寄る。そして彼の元で背筋を伸ばし、完璧な騎士の礼をもって深く頭を下げた。
「――ロッシ中将閣下。一つ、お願いがございます」
私のあまりに真剣な声色に、猛将の顔から表情が消える。
「……申してみよ、軍師殿」
「本日、この入り江で起きた『奇跡』。これについては乗組員全員に厳重な緘口令を敷いていただきたく存じます。これは『天翼の軍師』としての、正式な要請です」
「……ほう。手柄を隠せ、と申すか」
探るような視線が、フードの奥を覗き込もうとする。
「はい。無用な混乱を避けるためです。そして、私は祭り上げられることを忌避いたします。何卒、そのようにお取り計らいを」
一切の驕りを見せない凛とした態度。ロッシはしばらく黙って私を見つめていたが、やがて破顔し、腹の底から豪快に笑った。
「はっはっは! 分かった! よかろう、その願い、この“海竜”ロッシが聞き届けた!」
彼は完璧な敬礼で応じると、悪戯っぽく片目を瞑る。
「……ただし、皇帝陛下にご報告せぬわけにはいかん。その点はご承知おきくだされ」
「……う。……はい。それは、仕方ありません……」
私は観念し、小さく頷くことしかできなかった。
◇◆◇
ロッシ中将の厳命は、絶対だった。
「――聞け、野郎ども! 本日起きた奇跡については全て忘れろ! 陸に戻りこの件を口にした奴は、俺が直々に海に沈める! これは絶対命令だ!」
雷鳴のような一喝に、屈強な海兵たちの背筋が凍りつく。彼らは声もなく、ただ力強く頷き返した。
命令を下したロッシは踵を返し、すれ違ったゲッコーの耳元で誰にも聞こえぬ声で囁く。
「……裏からの『細工』は、任せても?」
その問いに、ゲッコーは無言で、しかし確かな頷きを返した。影が影に仕事を託した瞬間だった。
◇◆◇
船室に戻った私は、すぐにヴォルフラムの治療に取り掛かった。部屋の扉に鍵をかけ、二人きりになる。
彼女の肩と脇腹の傷は深く、服は赤黒く染まり、鉄の匂いが立ち上っていた。
「……ヴォルフラム。痛かったでしょう。……ごめんなさい」
「いえ……」
彼女はかぶりを振った。
「私は、リナ様をお守りできたのなら……。手の届かぬ所で何もできなかったことに比べれば、こんな痛み……痛みのうちにも入りません」
私は彼女の言葉を遮るように、その傷口にそっと手をかざす。
「《大いなる、水の御霊よ……》」
祈りの言葉と共に、掌から温かい白い光が溢れ出す。見る間に裂けた皮膚は繋がり、元の傷ひとつない肌へと戻っていった。
完璧に治癒した自分の体を見下ろし、ヴォルフラムはしばらく言葉を失っていた。
やがて、ずっと張り詰めていたものが、切れた。
その肩が、微かに震え始める。
「……リナ様……」
絞り出すような声が、静かな船室に響く。
「……どうか……もう、居なくならないでください……」
その声は、次第に嗚咽に変わっていく。
「何かをなさる時は……必ず、私が……私がお側に着くまで、待っていてください……!」
彼女は子供のように、私の体に強くしがみついた。
「どれほど……心配したかッ! なぜ、なぜ!そこに私は居なかった……! こんな無念は……あの身を抉るような心の痛みは……もう……!」
鋼の盾が見せる、熱い涙。
そのあまりに痛切な慟哭に、私はただ、その背中を優しく撫でてやることしかできなかった。
◇◆◇
船室の扉の外では。
心配そうに中の様子を窺う影が三つあった。聞き耳を立てていたゲッコー、マキナ、そしてロッシ中将。三人は中から漏れ聞こえるヴォルフラムの悲痛な泣き声に、それぞれ眉を寄せている。
――バァンッ!
突然、扉が内側に向かって一気に開かれた。
そこに立っていたのは、涙で目元を腫らし、顔を真っ赤にしたリナだった。
「ロッシ中将閣下!」
彼女は聞き耳を立てていた三人をギロリと睨みつけ、涙声のまま、しかし軍師としての威厳を込めて叫んだ。
「捕縛したアルビオン兵、鹵獲した輸送船と兵器、負傷者の手当て、帝国への報告! することは山ほどございましょう! いつまで油を売っておられるのですか!」
その剣幕と、少女らしい素顔のギャップに。
三人の猛者たちは、まるで叱られた子供のように弾かれたように背筋を伸ばした。
「「「はっ!!」」」
一糸乱れぬ敬礼が返る。
そして彼らは蜘蛛の子を散らすように、それぞれの持ち場へと駆け出していった。
残された私は、ふぅ、と長い息を吐く。
部屋の奥でまだ肩を震わせるヴォルフラムに向き直り、今度は姉のような優しい声で言った。
「さあ、ヴォルフラム。温かいスープでも、いただきましょうか」
その声に、彼女は涙に濡れた顔を上げ、小さく、しかし力強く頷き返した。