第18話:『薔薇の庭園と二つの顔』
王宮の離宮にあるという薔薇の庭園は、私の拙い想像を遥かに超える、夢の具現のような場所だった。
色とりどりの薔薇が甘く咲き乱れ、むせ返るほどの芳香が風に乗って頬を撫でる。その中心に立つ白亜のガゼボには、繊細なレースのクロスがかかったテーブルが置かれ、磨き上げられた銀のティーセットと、宝石のように美しい焼き菓子が並んでいた。
そして、そのガゼボの中心に。
この帝国で最も高貴な夫婦が、絵画のように穏やかな笑みを浮かべて座っていた。
皇帝ゼノン陛下と、皇妃セレスティーナ陛下。
その隣には、少し緊張した面持ちの第一皇子、ユリウス殿下が控えている。
(すごい……! これが、本物のロイヤルファミリー……!)
三十路の魂が、目の前の光景に打ち震える。
「お待ちしておりましたわ、救国の英雄殿」
皇妃陛下が、鈴を転がすような声と共に微笑む。
私は車椅子の上から深々と頭を下げた。もちろん、『謎の軍師』の扮装のままだ。
「……お招きいただき、光栄の至りにございます」
お茶会は、和やかというよりは、どこか探るような空気で始まった。
皇帝は豪快に笑いながらも、その瞳の奥は私の本質を見極めようと鋭く光っている。皇妃は優雅な手つきで紅茶を注ぎながら、当たり障りのない問いを投げかけてくる。
「東部戦線は過酷な場所と聞きます。さぞ、ご苦労も多かったことでしょう」
「……帝国臣民として、当然の務めを果たしたまででございます」
「まあ、謙虚ですこと。ユリウス、あなたも軍師殿にご挨拶なさい」
促されたユリウス皇子が、緊張に強張った顔で私を見た。
「は、はじめまして、軍師殿。僕も、あなたのようになりたいです。帝国を守れる、立派な男に」
そのあまりに純粋な瞳に、チクリと罪悪感が胸を刺した。
小一時間ほど、そんな探り合いが続いた頃。
皇帝が「さて、余は少し野暮用ができた」と、ユリウス皇子を連れてわざとらしく席を立った。庭園から二人の姿が見えなくなった、その時。
私は、覚悟を決めた。
「皇妃陛下」
私が口を開くと、隣に控えるセラがびくりと肩を震わせた。
「……今少しだけ、お時間を頂戴してもよろしいでしょうか」
「ええ、もちろん構いませんわ。何か、私にお話が?」
皇妃が、興味深そうに首を傾げる。
私はフードの奥から彼女の目をまっすぐに見据え、続けた。
「はい。ですがその前に……この場にいるのは、陛下が真に信用のおける者だけにしていただけますでしょうか」
その言葉に、場の空気が一変した。
皇妃は一瞬目を丸くしたが、すぐさま面白いものを見つけた子供のような、好奇心に満ちた笑みを浮かべた。
「……分かりましたわ。あなた、面白いことをおっしゃるのね」
彼女が一つ合図をすると、周囲の侍女や護衛たちが音もなくその場を離れていく。残ったのは、皇妃の隣に立つ年配の侍女長らしき女性ただ一人。
「これで、よろしいかしら?」
「ありがとうございます」
私は、この賭けに勝たねばならない、と強く念じた。
この帝都で、本当に信頼できる味方が必要だ。皇帝とは別のラインで絶大な影響力を持つこの皇妃陛下こそ、その相手にふさわしい。
「皇妃陛下には、これから先、何かとお世話になることもあるかと存じます。このまま正体不明では、いずれご無礼を働くことにもなりかねません。……私の、本当の姿を、お見せいたします」
静寂の中、私はゆっくりとフードに手をかけた。変声器を外し、カチャリと小さな音を立ててテーブルに置く。
そして、顔を上げた。
ガゼボの中を、声を呑む音だけが支配した。
皇妃セレスティーナは、その美しい青い瞳を、信じられないというように大きく見開いている。隣の侍女長は、腰を抜かさんばかりに目を見張り、わななく唇を覆った。
「……あなた……が……?」
皇妃の声が、微かに震える。
「はい。私が、リナと申します」
私は車椅子に座したまま、できる限りの優雅さを意識して、スカートの裾をつまんでみせた。
皇妃は、しばらく言葉もなく私を見つめていた。その表情は驚愕から困惑へ、そしてやがて……込み上げてくる笑いを必死にこらえるような、不思議な色へと変わっていく。
ついに耐えきれなくなったように、彼女は扇で口元を隠し、くすくすと、可憐な笑い声を漏らし始めた。
「……まあ! なんてこと! なんて……可愛らしい軍師様なのかしら!」
彼女は立ち上がると私のそばに歩み寄り、その冷たい指先で私の頬を優しく撫でた。
「そう。あなたが、あの憎らしい剣聖を泥まみれにした、恐ろしい智謀の持ち主……。信じられないわ。でも、この目で見てしまったものね」
彼女の瞳から、警戒の色は消えていた。
そこにあるのは、面白くて愛おしくてたまらない、新しい宝物を見つけた少女のような純粋な好奇心と……そして、母性にも似た温かい光だった。
「リナ、と言ったかしら。気に入りましたわ」
彼女は悪戯っぽく微笑む。
「あなたの秘密、私が責任を持って守って差し上げます。その代わり……時々、こうして私のお茶会に付き合ってちょうだい。あなたの話、もっとたくさん聞かせてほしいわ」
その瞬間、私は確信した。
私の賭けは、勝ったのだ。
この帝国で最も美しく、そしておそらくは最も強力な庇護者の一人を、味方につけることに成功したのだ。
目の前の宝石のようなケーキが、さっきよりもずっと甘く、輝いて見えた。




