第183話『奇跡の残響』
カラーん。
時が止まったかのような世界で、小さな小石が一つこぼれ落ちる音だけが、やけに大きく響いた。
また一つ、からん、と。
入り江は、冒涜的なまでの静寂に支配されていた。
見上げれば、死を振りまくはずだった巨大な岩塊が、私たちを守る異様な穹窿を描き、空中で静止している。神の悪戯か、あるいは気まぐれか。誰もがそのありえない光景に魂を抜かれ、ただ立ち尽くしていた。
その静寂を最初に引き裂いたのは、鋼の船から放たれた怒号だった。
「――何をしておるか、貴様らァッ!」
我に返ったロッシ中将の咆哮が、現実という楔を全員の脳天に打ち込む。
「いつまでも神の御業に呆けているな! この奇跡がいつまでも続くと思うな!」
その声が、金縛りを解く。
「総員、整然と避難を開始せよ! 負傷者を助け、女子供を先に! 急げぇッ!」
号令を皮切りに、人々は堰を切ったように動き出した。兵士たちはハッと顔を見合わせ、敵も味方もなく、ただ一つの目的のために『鋼のトビウオ』へと駆け出す。「港へ!」「道を開けろ!」怒号と指示が飛び交い、混乱の中に、生きるための秩序が生まれていく。
だが私は、まだ動けずにいた。
落下を止めて出来上がった岩のアーチを、呆然と見上げていた。
リナの瞳だけが、異なる世界の姿を捉えていたのだ。
静止した岩の隙間から、足元の土から、無数の柔らかな光の粒子が、吐息のように滲み出している。大地そのものが歓喜に打ち震え、この奇跡を祝福しているかのようだ。金色、若草色、琥珀色。名もなき光の渦が音もなく瞬き、この死地を聖域へと変えていく。
それはただの光ではなかった。一つ一つが、明確な意志を持っているかのようだった。
美しい、と思った。
金色、若草色、琥珀色……。色とりどりの光が混じり合い、一つの巨大な感情の奔流となって、私の心に語りかけてくるようだった。そして何よりも、多くの命が救えたことへの、大地そのものが震えるような、深く温かい安堵感が満ちている事が感じられた。
...それと同時に、私は自分の内に眠る得体の知れない何かに、底冷えするような畏れを覚えていた。
「リナ様!」
感傷は、力強い腕に断ち切られた。ヴォルフラムが私をためらいなく横抱きにする。
「え、ちょ、ヴォルフラム!?」
「失礼いたします! これが最も迅速かと!」
有無を言わさぬ声と共に、彼女は大地を蹴った。もはや人間のそれを超えた脚力。風を切り、逃げ惑う兵士たちをごぼう抜きに、一直線に船を目指す。その傍らを、ファルコが抜き身の短剣を手に、影のように並走し、常に周囲への警戒を怠らない。遠くでは、ゲッコーが何かを抱えて風のように駆けているが見えた。
船のタラップに飛び乗ると、鬼の形相のロッシ中将が駆け寄ってきた。その顔には安堵と、そして私の力の根源への畏怖が、複雑に混じり合っている。彼はフードの奥の私を一瞥し、絞り出すように問うた。
「……貴官が、『天翼の軍師』殿……で、間違いないか」
◇◆◇
「――全員、乗船完了!」
部下の報告に、ロッシは即座に振り返り、機関室へ向かって絶叫した。
「機関長、最大船速! この地獄から離脱する!」
『鋼のトビウオ』が大きく身を震わせ、後進をかける。
軋む船体が岸壁を離れ、入り江の出口へと向かう。
その船上から、私たちは見た。
崩落が作り上げた、巨大な岩のアーチ。
その頂点に、黒い影が一つ、仁王立ちしていた。
ハヤトだった。
彼は人の手では決して創り得ない、歪で巨大な造形物を、ただ呆然と見下ろしている。
やがて、誰に言うでもなく、ぽつりと呟いた声が、海風に乗って微かに届いた。
「…………こりゃ、スゲーや…」
刹那、彼は天を仰ぎ、腹の底から咆哮した。
「あっははははっ! スッッゲェーーー!」
そこに嫉妬や対抗心の色はない。ただ、己の理解を超えた「力」を前にした、戦士の純粋な感嘆と歓喜。
彼は思い出したようにアーチの頂点を蹴ると重力を無視したかのような跳躍で、いくつかのアーチを飛び渡り、私たちの船へと軽々と飛び乗ってきた。
二隻の船が、無事に入り江を脱出する。
その直後だった。
まるで役目を終えたと告げるように、静止していた岩のアーチが、再び世界を揺るがす轟音と共に崩れ落ちていく。
それは弔鐘のようでもあり、産声のようでもあった。
岩と土砂が入り江を完全に埋め尽くすまで、私たちはただ黙って、その光景を見つめていた。