第181話:『狼の断末魔、そして崩れゆく空』
私の降伏勧告が、夜明けの静まり返った入り江に吸い込まれていく。
それを合図としたかのように、アルビオン兵たちは雪崩を打ち、次々と銃を投げ捨てた。カシャン、と虚しい金属音が響き、彼らは力なく膝をつく。
誰もが、これで戦いは終わったのだと、張り詰めた糸を緩めかけた。
だが。
その偽りの安堵を嘲笑うかのように、高台から一つの狂気が牙を剥いた。
バルドルの副官。銃という新しい力に魅せられた、あの若い男。
血走った目で『鋼の蜂』の銃座に食らいつき、その引き金に指をかける。彼の瞳に、もはや正気の色はない。
「……あの、チビが……! 俺たちの全てを……!」
憎悪に濁った視線が捉えたのは、ハヤトでも、ゲッコーでもない。
ヴォルフラムの傍らに静かに立つ、小さな少女の影。リナだった。
全ての元凶。あの小娘さえいなければ。高台から見下ろす彼には、戦場の全てが手に取るように分かっていた。あの小娘が...
歪んだ結論に至った男の指が、憎悪と共に引き金を絞り込む。
ダダダダダダダッ!
『鋼の蜂』が、断末魔の如き咆哮を再び上げた。
弾丸の嵐が、一直線にリナへと殺到する。
「リナ様!」
「させるかァッ!」
ゲッコーとハヤトが弾かれたように高台に向かって動いた。だが、間に合わない。
その絶望的な弾幕の前に、しかし、一つの鋼の壁が立ちはだかった。
ヴォルフラム。
彼女は一歩も引かず、リナを背に庇い、その剣を凄まじい速さで振るう。
ギィンッ! ギャギャギャギャンッ!
甲高い金属音が嵐のように連続し、夜明け前の闇に無数の火花が咲き乱れた。
飛来する弾丸が、ことごとく彼女の剣に弾かれていく。北の大地での地獄の特訓が。リナを背にしたその極限の集中力が。彼女を人外の領域へと押し上げていた。
だが、弾幕はあまりに濃密だった。数発が防御をすり抜け、その肩と脇腹を抉る。
「ぐっ……!」
鮮血が霧のように舞い、服を赤黒く染めた。それでも彼女はその場に仁王立ちを続ける。
さらに一発、角度悪く弾かれた弾丸が、彼女の頬を浅く切り裂いた。肌に、一筋の紅い線が走る。
それでも彼女の瞳の光は、微塵も揺るがない。
獰猛な笑みが、その口元に浮かんでいた。
「――ぬるいわッ!」
その言葉が、反撃の狼煙だった。
ヴォルフラムが作り出した、わずか数秒の時間。
それで、十分だった。
黒い疾風が駆け上がる。ハヤトだ。
高台に躍り出た彼は、副官の元へ一瞬で肉薄すると、その両手首を躊躇なく斬り落とした。
「ぎゃああああああ!」
絶叫と共に、銃声が途絶える。
時を同じくして、ゲッコーの影が跳躍し、宙で身を翻しながら男の両足の腱を正確に断ち切った。
二人の完璧な連携が、最後の脅威を沈黙させた。
◇◆◇
だが、その一瞬の隙が、死神を呼び覚ましていた。
誰もが高台の騒動に気を取られている間に、倒れ伏していたはずのバルドルが、芋虫のように執念深く地を這っていた。
彼の目的地は、彼の居た司令部の近くに無造作に置かれていた、起爆装置。
「(……ふ……ふふ……)」
血に濡れた腕が、起爆スイッチに絡みつく。
「(……もろともだ……!)」
狂気に爛々と輝く目が、入り江の全てを睨みつけた。
「(好きにはさせん……! 全員、ここで死ねぇッ!)」
男が、スイッチを押し込んだ。
――ゴゴゴゴゴゴゴゴゴッ!
次の瞬間。
入り江全体が、腹の底から揺さぶられるような轟音と振動に包まれた。
両岸の切り立った崖が、内側から爆ぜる。ダグラスが拠点設営のときに仕掛けていた、最後の安全装置――緊急自爆用の大量の火薬が、一斉に火を噴いたのだ。
岩盤が悲鳴を上げて砕け散り、巨大な岩の滝となって入り江へと降り注ぐ。
空が、崩れてくる。
それは、もはや人の手には負えない、絶対的な破壊の光景だった。
「総員、船に戻れーっ!」
ロッシ中将の絶叫が木霊する。
だが、遅い。崩落は、入り江の出口から塞がり始めていた。