第180話:『闇を裂く刃、夜明けの静寂』
「まだ懲りておらんとみえる!」
バルドルの咆哮が、冷たい風を震わせる。彼は手にした銃を無造作に投げ捨てると、背負っていた巨大な戦斧をその手に掴んだ。ゴツリと鈍い音を立てて握りしめられた鋼の塊。前回の戦いでこの男を赤子のように叩き伏せた記憶が、その口元に獰猛な笑みを浮かべていた。
「お前では力不足だ!」
だが、影――ゲッコーは何も答えない。
ただ無言で、揺るがぬ視線でバルドルを捉えたまま、死神が歩むように静かに距離を詰めてくる。その足音ひとつしない異様な接近に、バルドルの獣じみた勘が、皮膚を粟立たせるほどの警鐘を鳴らした。目の前の男が放つ気配は、あの時とはまるで別物だ。空気が歪むほどの、研ぎ澄まされた殺意。
「――死ねぇッ!」
先に動いたのはバルドルだった。
地を揺るがす咆哮と共に振り下ろされた戦斧が、岩盤を砕き、眩い火花を夜明け前の闇に散らす。しかし、轟音と衝撃が収まった時、そこにゲッコーの姿はなかった。
まるで陽炎。
風のように一撃をいなした影は、バルドルの巨躯の周りを、戯れるかのように舞い始める。バルドルが薙げば低く潜り、振り上げればその懐に滑り込む。常識では捉えきれぬ緩急と角度で翻弄され、巨漢の額には焦りの汗が玉のように噴き出した。振り回す戦斧が、虚しく風を切る音だけが響く。
「なぜだ! なぜ当たらんのだッ!」
魂から絞り出したような叫びが、夜明け前の空に吸い込まれて消えた。
その問いに、初めて氷のように冷たい声が応える。
「――今は、あの時とは違う」
声は、すぐ背後から聞こえた。
バルドルが驚愕に目を見開く。
「あの時は、護るべき光が背にあった。故に、受けるしかなかった」
「……ッ!」
「だが、今は違う。我が主君は、帝国最強の盾に護られている」
昏い闇の中で、ゲッコーの瞳が燐光のように揺らめいた。復讐の炎が、静かに燃え上がっている。
「――そして、ここは俺の土俵だ」
次の瞬間、銀の閃光が四度、闇を切り裂いた。
それはもはや剣技ではない。人体の構造を識り尽くした、精密機械による完璧な解体作業だった。
「ぐ……ぎゃあああああっ!!」
肉を断ち、骨を砕く鈍い音。
バルドルの両手首と両足首が、寸分の狂いもなく断ち切られた。戦斧が乾いた金属音を立てて手から滑り落ち、大地を踏みしめる力も奪われた巨体は、もはや悲鳴とも呼べぬ絶叫と共に崩れ落ちる。
ゲッコーは血だまりに沈むバルドルの前に音もなく立つと、その喉笛に、感情の乗らぬ拳を容赦なく叩き込んだ。
「ごふっ……!」
鈍い音とくぐもった呻きを最後に、バルドルは声も出せずに悶絶する。これ以上の指示を出させないための、冷徹で的確な一撃だった。
◇◆◇
あまりに一方的な蹂躙劇で幕が閉じようとしていたその頃。
白み始めた水平線を切り裂いて、けたたましいエンジン音が静寂を破って、巨大な鋼の影――『鋼のトビウオ』が、水飛沫を上げて接近して来ていた。
遅すぎた、主役の登場だった。
船首の衝角が木造の桟橋を飴細工のように粉砕し、轟音と共に陸地へと乗り上げる。船腹から叩きつけられた道板を駆け下り、完全武装の帝国海兵たちが、雄叫びと共に雪崩れ込んできた。
だが、彼らの目に飛び込んできたのは、喊声に応える刃ではなく、異様な静寂だった。
アルビオン兵たちは、呆然と立ち尽くしている。
その中央、夥しい数の負傷兵が転がる中で、血も浴びていない黒い仮面の騎士が、まるで舞台役者のように優雅に手を振っていた。
そして、彼らの司令官であったはずの巨漢が手足を無くし、血の海に沈んで呻いている。
突撃してきた海兵たちは、そのあまりにシュールで、戦闘が終わってしまった後の光景に戸惑い、勢い余って数歩よろめきながら足を止めた。
彼らの脳裏には、ただ一つの巨大な疑問符だけが浮かんでいた。
(……あれ……? 俺たちの、出番は……?)
その、あまりに間の抜けた空気を切り裂いたのは、凛とした一人の女騎士の声だった。
◇◆◇
朝の光が空を明るくし始めている中、私は傍らに立つヴォルフラムに静かに告げた。
「……ヴォルフラムさん。投降の呼び掛けを」
「はっ」
ヴォルフラムは一歩、前へ出る。戦場の全てを見渡すように一度目を細め、そして、腹の底から声を張り上げた。鍛え上げられたその声は、夜明けの澄んだ空気を震わせ、入り江の隅々にまで響き渡る。
「――聞け、アルビオンの兵士たちよ! 司令官バルドルは討ち取った! 敵意無き者は速やかに武器を捨て、投降せよ! 我ら帝国・王国連合軍は、無用な殺生は望まない!」
威厳に満ちた声がこだまする。
だが、アルビオン兵たちの反応はにぶかった。
彼らはただ、分からない言葉の響きに怯え、武器を握りしめたまま呆然と立ち尽くしている。誰一人として、膝をつこうとはしない。予期せぬ沈黙がその場を支配した。
その光景を見た私は、はっと息を呑んだ。
(言葉が、通じていない!)
彼らの顔に浮かぶのは絶望ではなく、理解できないものへの警戒と恐怖。このままでは、絶望した彼らが無謀な最後の抵抗に打って出るかもしれない。
私は戸惑うヴォルフラムを横目に飛び出した。フードを目深にかぶり、呆然とする兵士たちの前に立つ。そして、肺の空気を全て絞り出すように、夜明けの空に向かって叫んだ。
「聞け、アルビオンの兵よ! 」
突然響いた母国語に、兵士たちの肩がびくりと震えた。すべての視線が、フードを深く被った私に突き刺さる。
「司令官バルドルは敗れた! もはや戦いは終わった! 命が惜しい者は、武器を捨てて跪け! 帝国は、投降した者に寛大であると誓う!」
私の声が、最後の引き金となった。
カシャン、と一つ。誰かが力なく銃を投げ捨てる。
それを皮切りに、カシャン、ガチャン、と重い金属が地面に落ちる音が次々と連鎖していく。アルビオン兵たちは、まるで堰を切ったように次々とその場に膝をつき、うなだれた。
水平線から昇った朝日が、武器を捨てた兵士たちと、静寂を取り戻した入り江を、分け隔てなく照らし始めていた。