第178話:『黒き衝動、暁の強襲』
水平線がかろうじて白み始めた夜と朝の狭間、静まり返る入り江を耳を劈く咆哮が引き裂いた。
高出力蒸気機関が限界まで回る、甲高い金属音。
停泊する輸送船の甲板で、見張り番の兵士が酒の気も抜けきらぬ頭で音の方へ顔を向け――凍りついた。
闇の中から“それ”は現れた。海面を滑るのではなく、もはや跳ねるように突き進んでくる一筋の黒い弾丸。鋭い船首が波を切り裂き、白い飛沫を翼のように広げるその先端に、月光を浴びて濡れ光る二つの人影が浮かび上がる。
常識を逸脱した速度と、徐々に大きくなる地獄の序曲にも似たエンジン音は、この入り江の偽りの平穏を粉砕する破壊の化身そのものだった。
宴の酔いも覚めやらぬ拠点内が、水を打ったように静まり返る。
刹那の沈黙を破り、誰かの金切り声が狼たちの巣に警鐘を乱れ打った。
「て、敵襲! 敵襲だぁぁっ!」
◇◆◇
「撃て! 撃ちぬけ!」
バルドルの咆哮が響き渡る。
監視所から乾いた銃声が一発、闇夜にオレンジの閃光を走らせたが、弾丸は虚しく艇の航跡を掠めるだけだった。
「何をしている、未熟者どもが!」
焦れた怒声に呼応するように、そして輸送船の甲板からも次々と銃口が火を噴く。単発の銃声はすぐに不協和音の連射となり、無数の弾丸が雨のように黒い艇へと降り注いだ。
だが、当たらない。
『黒き衝動』はハヤトの意のままに、もはや物理法則を無視した生き物のごとく海面を舞う。彼は遊びのように操縦桿を操り、波のうねりを読んで船体を跳ねさせ、弾道を回避していく。常人であれば三半規管が焼き切れそうな機動を、彼はただ楽しんでいた。
「ヒャッホー! 当たらねえよ、そんな鈍くせえ弾!」
その時、偶然にも一発の弾丸が、ヴォルフラムの顔面めがけて一直線に飛来する。
「――!」
彼女が息を呑んだ、その刹那。
ギィンッ、と甲高い金属音が夜闇に響き、鮮烈な火花が散った。ハヤトが操縦桿から片手を離し、抜き身の剣で寸分の狂いもなく弾き飛ばしたのだ。
「呆けてんじゃねーぞ」
その人間離れした光景にヴォルフラムは息を呑むが、怯えはない。銃弾の嵐の向こう側、敵拠点の隅々までを蒼い瞳が恐るべき集中力でなぞっていく。
(……居住区……監視所……そして、あの洞窟が武器庫か……!)
戦場の全てをその目に焼き付けながら、彼女は必死に一つの影を探す。愛しい、主君の姿を。
そして、見つけた。
月明かりに照らされたほんの一瞬、不安そうに周りを窺う小さな人影。
間違いない。亜麻色の髪、華奢な肩。
「――リナ様!」
声にならない叫びが、胸の奥で木霊した。
「――よし! 挨拶は済んだ!」
ハヤトが吠える。「しっかり掴まってろよ、ヴォルフラム!」
『黒き衝動』は進路を変え、入り江の最も奥へと向かう。スロットルが最大まで捻り込まれ、エンジンが限界ギリギリの咆哮を上げた。船はもはや水面を走っていない。飛ぶように、死へと向かう矢のように、敵中へと突っ込んでいく。
「馬鹿か、あいつは! 自爆する気か!」
バルドルの呆然とした呟きが響く中、陸へと乗り上げる寸前、ハヤトは船体を大きく傾けた。そして砕け散る寸前の、最も高く盛り上がった波の斜面へ、黒い獣は吸い込まれるように乗り上げる。
強烈なGと、続く内臓が浮き上がる一瞬の無重力。
黒い獣は空へと解き放たれ、天高く舞い上がった。
月を背に、砕け散る波飛沫を銀の翼のように広げながら。それはあまりにも美しく、冒涜的な光景だった。
「いくぞっ!」
飛翔の頂点で二つの影が音もなく船体から離れ、猫のようにしなやかな軌跡を描いて陸上へと降り立った。
主を失った『黒き衝動』だけが、重力に従い放物線を描いて海へと落下し、盛大な着水音と共に壮大な水柱を上げる。
「――さあ、ショータイムだ!」
ハヤトの叫びが号砲となり、その姿が闇に溶けるように掻き消えた。黒い疾風が混乱する兵士たちの間を駆け抜け、閃光が一閃する度に兵士たちの利き腕から鮮血が舞う。
「ぎゃあああっ!」
悲鳴が連鎖していく。命は奪わない。だが戦う力を奪い、恐怖だけを植え付けていく。
「――『鋼の蜂』を起動させろ! あの化け物を蜂の巣にしてやれ!」
バルドルの絶叫に応え、高台からけたたましい連射音が響いた。毎分二百発を超える弾丸が、ハヤトに襲いかかる。
「おおうっ! こりゃスゲーや!」
前面からの連射と単発の射撃の集中砲火にハヤトは、死の嵐の中を戯れるように舞い踊った。軽やかなステップと体の捻りだけで弾道を読み切り、頬を熱風が焼き、耳元で風切り音が悲鳴を上げる中、避けきれぬ弾丸だけが彼の剣閃に阻まれ、火花となって夜に消えていく。
その派手な独擅場を陽動に、もう一つの刃が静かに動く。
ヴォルフラムだ。
ハヤトが生み出した混沌に紛れ、彼女はただ一点、リナが囚われる居住区を目指して疾走する。
彼女にも数発の弾が襲うが、その全てを冷静に見極め、自らを害しそうな弾丸を剣で弾いてみせた。北の大地での地獄の特訓と、船上での蒸気式豆連射銃での特訓は、彼女を人外の領域へと一歩踏み込ませていた。
ヴォルフラムの瞳が捉えるのは、ただ一つ。
愛しい主君の、小さな影だけだった。