第177話:『夜明けの黒い矢』
夜明け前の海は、墨を流したようにどこまでも黒く、肌を刺すような冷気を湛えて沈黙していた。
その静寂を、水を裂く微かな音だけを残して一隻の鋼の獣が進む。帝国が誇る高速突撃艦『鋼のトビウオ』。マストを持たない平たく異様な船影は、深海から浮上した魔物のように息を殺し、目標の島嶼部へとその身を潜ませていた。
鉄と潮の匂いが混じる艦橋の海図室は、ランプの頼りない灯りに揺れ、息苦しいほどに張り詰めている。
「――この海域で間違いない」
船体の微かな振動に、ロッシ中将の燻し銀のような低い声が重なった。海図を指し示すその指先に、揺らぎはない。
「昨夜、サンタ・ルチアの『蜘蛛の糸』に最後の伝書鳩が届いた。リナ殿とゲッコー殿は予定通り敵船に潜入。記された予定では、船は日没前にこの島嶼部へ入ったはず、と」
その報告に、ヴォルフラムは息を詰めた。
リナ様は、もうあの狼の巣の中に。焦燥が喉を焼く。
隣に立つハヤトは、気だるげに腕を組んでいるだけだ。だが、その仮面の奥で光る双眸は、獲物を前にした獣のようにギラついていた。
「だが、問題は正確な位置だ」
ロッシの指が、海図に描かれた無数の島々をなぞる。
「闇雲に探せば、こちらの存在を悟られるだけだ。夜が明ける前に、敵の巣穴を特定せねばならん」
重い沈黙が落ちる。
その空気を破ったのは、嘲るように軽やかな声だった。
「――ならば、俺が行ってこよう」
ハヤトだった。
彼は不敵な笑みを浮かべ、後部甲板に吊るされた黒い弾丸を顎でしゃくってみせる。
「マキナの傑作、『黒き衝動』。こいつがあれば、夜明け前にこの海域を探り尽くすことなど造作もない。……なあ、ヴォルフラム。お前も来い。二つの目の方が効率的だろう?」
「……ああ」
ヴォルフラムは短く、力強く応じた。
◇◆◇
数分後。
軋む金属音を立ててクレーンが動き出す。『鋼のトビウオ』の後部甲板から、闇色の海面へ、眠る海獣のように『黒き衝動』が静かに下ろされた。
闇に溶ける船体に飛び乗った二人は、マキナ開発の小型通信機『囁きの小箱』をヘルメットに装着する。
「いいか、二人とも。敵の位置を特定次第、すぐに帰還しろ。いいな」
ロッシの厳命に、ハヤトは「へいへい」と気のない返事を返すのみ。ヴォルフラムは、無言で深く頷いた。
ハヤトが操縦桿を握り、蒸気機関のバルブを捻る。
船体が震え、腹の底に響くような低い唸りが始まった。
次の瞬間、彼は躊躇なくスロットルを全開にした。
――ギュルルルルルンッ!
甲高い咆哮が夜気を引き裂き、『黒き衝動』は静止から爆ぜるように加速する。船首が水面を叩きつけ、噴水のような飛沫を上げて、一筋の矢となり闇の中へと消えていった。
その暴力的なまでの速度に、見送っていた海兵たちが息を呑む。
夜の海が、牙を剥いた。
視界を奪う漆黒。肌を切り裂く潮風。突如として闇から現れる岩礁の黒い影。
だが、ハヤトはそれを心から楽しんでいた。
「ヒャッホー! 最高だぜ! まるで闇を飛んでるみてぇだ!」
獣的な勘としか思えぬ操舵で、闇から突き出す牙のような岩礁を紙一重で躱していく。その口元には獰猛な笑みが浮かんでいた。
後部座席で必死にしがみつくヴォルフラムの全身を、内臓が揺さぶられるほどのGが襲う。叩きつける風圧に呼吸さえままならない。
風の轟音の合間、不意にハヤトの声が耳に届いた。
「……なんだ、震えてるのか?」
いつもの軽薄さは消え、静かな響きを帯びている。
風音に負けじと、ヴォルフラムは叫び返した。
「……武者震い、というやつだ!」
嘘ではなかった。恐怖と、そしてこれから始まる戦いへの昂ぶりが、確かに彼女の体を震わせていた。
やがて、彼らの視界の先に、針で突いたような微かな灯りが滲んだ。
崖に囲まれた天然の入り江。アルビオンの輸送船が影のように停泊し、粗末な建物から生活の光が漏れている。
間違いない。『狼の巣』だ。
ヘルメットに装着された小型通信機にノイズが混じり、ハヤトの声が本艦に届く。
『――こちら、『黒き衝動』。目標を発見』
『……よし。直ちに帰還せよ』
だが、ハヤトは不敵に口の端を吊り上げた。
「……悪いな、中将。少しだけ、挨拶代わりの花火を打ち上げていく」
『待て、馬鹿者! 命令を――』
ロッシの制止は、ハヤトが切ったスイッチの音と共に途絶えた。
エンジンが、再び獣の咆哮を上げる。
夜明け前の静寂を切り裂き、黒き衝動は一筋の矢となって、敵の巣穴へと突き進む。