第176話:『狼の巣の静寂』
船底を掻く水の音が変わり、船足が緩んでいく。
甲板を掃く手を止め顔を上げると、濃密な潮の香りに、湿った岩と土の匂いが混じり始めた。
目の前に、巨大な断崖絶壁が黒い影となってそそり立つ。まるで古代の獣が大きく顎を開き、我々を丸ごと飲み込もうとしているかのようだ。船はゆっくりと、その狭い入り江へと吸い込まれていく。
「……おい、なんだか妙な空気じゃねえか……?」
船員の一人が、こわばった声で呟いた。
その一言がさざ波のように広がり、甲板のあちこちで不安の囁きが生まれる。私も同じ違和感に肌が粟立つのを感じていた。
出迎える船も、人の姿も、ない。活気というものがまるでなく、ただ、研ぎ澄まされた刃のような視線だけが、崖の上のあちこちから無数に突き刺さってくる。
ここは要塞というより、巨大な墓場のようだった。
船体が軋む音を立てて桟橋に着けられると、すぐに荷下ろしが始まった。
「――掃除婦どもは居住区で待機していろ! 作業の邪魔だ!」
甲板に響いたのは、狂戦士バルドルの不機嫌な怒声。彼は荷揚げされる木箱――最新式の銃器の数々――に目を輝かせ、私たちのような雑役には目もくれない。
その油断こそが、私たちの命綱だった。
私を囲むように歩く仲間たちが、わざとらしく大きな声で世間話を始める。
「やだねぇ、ここの男たちは気が荒いったら」
「まったくだよ。さっさと終わらせて帰りたいもんだねぇ」
その陽気な盾に守られ、私はうつむき加減に、息を殺して石畳に最初の足を踏み入れた。
案内されたのは、入り江の隅に建てられた粗末な居住区の一室。薄い木の壁は、隣の部屋の息遣いすら伝えそうだ。窓の外では、銃を肩にした兵士たちが、無感動な顔で行き来している。
鉄格子のない檻。肌が、そう告げていた。
◇◆◇
その日の夕食は、石のように冷たい乾パンと、ただ塩辛いだけの生ぬるいスープだった。
部屋に灯りはなく、窓から差し込む痩せた月明かりだけが頼りだ。私たちは身を寄せ合って床に座り、黙々とそれを口に運ぶ。カツン、とスプーンが皿に当たる乾いた音だけが、やけに大きく響いた。誰もが口を閉ざし、腹の底に沈殿していく不安を押し殺している。
夜が更け、支給された薄汚れた毛布にくるまり、板張りの冷たい床に体を横たえる。壁の向こうからは、兵士たちの下品な笑い声と、賭け事に興じる怒声。そして、遠い波の音。そのすべてが、私たちの不安を掻き立てる不協和音となって耳に届いた。
私は、隣で小さく体を丸める若い掃除婦の肩をそっと撫でた。彼女の背が、微かに震えていた。
その時。
窓の外の闇が、人の形を成して揺らめいた。
音もなく窓枠を乗り越え、猫のように静かに着地した影。ゲッコーさんだった。彼の体は夜の冷気と、微かな火薬の匂いを纏っている。
私は息を呑み、身を起こした。
「……ゲッコーさん」
「……しっ」
彼は人差し指を唇に当て、私を部屋の隅に手招きする。その声は、囁きよりも小さい。
「状況は掴めました。この拠点に精兵と呼べる者は少ない。大半は訓練もままならぬ工兵と新兵です」
安堵しかけた私たちの喉元に、彼は氷の刃を突きつける。
「……ですが、厄介です。敵兵は全員が銃を所持。高所には『鋼の蜂』と呼称される連射兵器も設置済み。……下手に動けば、この地形では逃げ場はありません」
部屋の空気が、凍りついた。
ファルコが、声を絞り出す。
「……では、今は動けぬと?」
「今は静かに潜み続けるしかない。……ですが、万が一の備えは」
ゲッコーさんの視線が、私を射抜いた。
「ファルコ。もしもの時は、リナ様を連れて船へ向かうふりを。港の右岸、あの岩陰の奥に小舟を隠しておきました。数日分の食料と水も。そこから海へ」
「……ゲッコー様は!」
「……俺が、時間を稼ぐ」
有無を言わせぬ、鋼の響き。
自らの命を捨て石にするという、冷徹な覚悟の言葉だった。
「……それは……!」
私が声にならない声で反論しようとするのを、彼は静かな、しかし決して揺るがぬ視線で制した。
「無為に死ぬつもりはありません。ですがリナ様、あなたはご自身の命の重みを理解せねば。……あなたの無事が、最優先事項です。絶対に」
その夜、私は眠れなかった。
壁の向こうから聞こえる、獣のような笑い声。寄せては返す、遠い波の音。
そして、隣で息を殺し、闇に溶け込むゲッコーさんの、研ぎ澄まされた気配。
偽りの静寂の中、私はただ、覚悟を決めていた。