第175話:『聖女の盤面、騎士の覚悟』
サンタ・ルチアの港に停泊する帝国の高速艇『アルバティン』。
船室には、湿った潮の香りとマリアが纏う微かな香水、そして沈黙が満ちていた。卓上の『囁きの小箱』から響いていた通信がぷつりと途絶え、ロッシ中将の力強い咆哮の残響だけが、まだ思考の縁でこだましている。
「……ふぅ」
マリアは長い息を吐き、指先でこめかみを静かに押さえた。窓の外で、カモメが甲高く鳴く声がする。
リナは生きている。そして帝国最強の戦力たちが、彼女を救うべく荒波の海へと躍り出た。最悪だった盤面は、一転して俄かに明るいきざしをみせた。
マリアの唇に、怜悧な笑みが浮かぶ。
「セラ様」
静寂を破った声は、氷のように澄んでいた。傍らで安堵の息を漏らしていたセラが、はっと顔を上げる。マリアの瞳には、すでに次の手を読む冷たい光が宿っていた。
「わたくしたちは、聖王都『蓮華』へ一度戻りますわ」
「えっ?」
「“影”に加え、最強の『剣』と『盾』が最速の船で向かいましたの。今からわたくしたちが駆けつけても、祝勝会に顔を出すのが関の山でしょう」
彼女はしなやかに立ち上がると、船室の隅で囚われている男へ氷の視線を向けた。
「デニウス・ラウル……。あの男、ただの駒ではない。アルビオンの内情を知る、またとない情報源ですわ。わたくしが直々に『査定』して差し上げなければ」
その声には、いかなる反論も許さぬ響きがあった。
◇◆◇
白亜の都、聖王都『蓮華』。
帝国の高速艇が再びその美しい港に錨を下ろす頃、ライナーは既にデニウスの尋問を終え、その処遇に腕を組み、眉間に深い皺を刻んでいた。
そこへ、マリアが嵐のように帰還する。
「――ごきげんよう、ライナー殿。……そちらが、デニウスですのね?」
牢代わりに使われている船室の隅で、デニウスが力なくうなだれている。マリアは、まるで珍しい虫でも観察するかのように彼を一瞥した。
一歩、また一歩と彼我の距離を詰め、その正面に立つ。浮かべたのは、慈愛に満ちた聖女の微笑み。だが、その声は絶対零度の冷たさを帯びていた。
「わたくしに協力すれば、あなたの望み……イリアーヌという娘を救う手助けをして差し上げなくもないと思いますわ。……けれど、拒むというのなら」
言葉を切り、美しい唇が残酷な未来を紡ぐ。
「あなたの船『海燕』は海賊船として拿捕し、乗組員は奴隷鉱山送り。そしてあなた自身は……そうね、アルビオン本国へ丁重に送還いたしましょうか。『帝国と王国の最重要人物を誘拐し、聖王国の名を騙った大罪人』として」
その静かな宣告は、デニウスの心に残っていた最後の光を、音もなく踏み消した。
糸が切れたように、男の肩ががっくりと落ちる。
◇◆◇
数時間後、大神官との会談の席で、マリアは完璧な聖女の仮面を被っていた。
「――大神官様、この度はお騒がせいたしました。デニウス船長一行を調査いたしましたが、些細な行き違いがあっただけのようです。わたくしたちの早とちりで、大変ご迷惑をおかけしましたわ」
穏やかで、しかし凛とした声が神殿に響く。
「つきましては、これ以上のご滞在は聖王国のご迷惑となりましょう。彼らの船の出港停止を、解いていただきたく存じます」
大神官は露骨に安堵の息を漏らし、深く頷いてその申し出を快諾した。面倒事が過ぎ去ったことに、ただ胸を撫で下ろしている。
◇◆◇
出港の朝。
聖王都の港には、奇妙な光景が広がっていた。
先頭に立つのは、帝国の白銀の高速艇『アルバティン』。その後ろを、影のようにアルビオンの船『海燕』が続く。護送される囚人船であることなど、港の誰も知る由もなかった。
「――お待ちください、マリア様!」
艦橋で出港準備を進めるマリアの元へ、息を切らしたライナーが駆け込んできた。その顔には、隠しようもない焦燥と抗議の色が浮かんでいる。
「なぜ、私がこの『海燕』に残らねばならんのですか! リナ様が危険な敵地へ向かわれた今、一刻も早くお側へ駆けつけるのが私の務めのはず!」
魂からの叫びだった。リナを守るという誓いが、彼の冷静さを焼き尽くしている。
マリアは、そんな彼を冷徹な、しかし全てを見透かすような瞳で見つめ返した。
「ライナー衛士長。本当に、それでよろしいの?」
「……と、おっしゃいますと?」
「『鋼のトビウオ』には、帝国最強の『剣』と『盾』が乗っている。そこにあなたという『槍』が遅れて加わったところで、戦力が過剰になるだけですわ。……それに」
彼女は、ライナーの瞳の奥を射抜く。
「あなたの本当の役目は、ただの武人ではないはず。この『海燕』には、アルビオンの内情を知る生きた情報源がいる。これをポルト・アウレオまで無事に送り届け、帝国や王国の者たちと連携し、敵の内情を白日の下に晒す……。それこそが、あなたにしかできない、リナ様の勝利に繋がる最も重要な仕事ではないかしら」
あまりに的確な指摘に、ライナーはぐっと息を呑んだ。マリアは畳み掛ける。
「リナ様を信じなさい。そして、彼女が信頼する仲間たちを信じるのです。……彼女は、ただ守られるだけのか弱いお姫様ではないはずよ」
その言葉が、ライナーの胸に深く、鋭く突き刺さった。
そうだ。リナ様は、いつも盤面全体を見ておられた。自分は、目先の戦いに囚われすぎていた。
彼は一度固く目を閉じ、深く息を吸い込むと、全ての迷いと共に吐き出した。
「……承知、いたしました。マリア様。……リナ様のことは、お頼み申します」
深く一礼し、踵を返す。艦橋を出ていくその背筋は、迷いを断ち切ったように真っ直ぐに伸びていた。
やがて、『アルバティン』はセラとマリアを乗せ、一路、決戦の海域『狼の巣』を目指す。二隻の船は港を出るとすぐに舵を切り、別々の航路を取った。
「よろしいのですか、マリア様。ライナー殿のこと」
艦橋で風に髪をなびかせながら、セラが尋ねる。
「ええ。今回は、わたくしたちにその役が回ってこなかった。ただそれだけのこと」
マリアは不敵に笑う。
「『鋼のトビウオ』には最強の『剣』と『盾』がいますもの。おそらく、私たちも間に合わないでしょう。それに何より……」
彼女は一呼吸置き、その瞳に確信の光を宿した。
「……リナ様の傍には、信頼できる『影』も寄り添っているようですし。心配せずとも、活路は開きますわ」
マリアの視線は、遥か彼方の水平線を見据えている。
異なる使命を乗せ、二隻の船はそれぞれの運命が待つ波間へと消えていった。