第173話:『鋼の獣、南へ』
遥か南の海は、残酷なほど穏やかな陽光に満ちていた。
どこまでも続く紺碧の水平線を、一隻の鋼の獣が切り裂いていく。
帝国海軍が誇る最新鋭高速突撃艦、『鋼のトビウオ』。マキナの狂気と才能が生み出したその船は、帆を持たずして海面を滑り、船尾に乳白色の長い航跡を描いていた。
だが、その革新的な船内は地獄の様相を呈していた。
「う……っぷ……」
「……もう、勘弁、してくれ……」
常識を逸脱した速度と、波のうねりを直接拾う猛烈な揺れ。屈強なはずの帝国海兵たちが、顔面蒼白で次々と甲板に崩れ落ちていく。船酔いという原始的な敵の前で、彼らの誇りは為すすべもなかった。
その阿鼻叫喚が渦巻く甲板で、平然と立つ影が三つ。
一人は、この船の主、“海竜”オルランド・デ・ロッシ中将。潮風に焼かれた顔は微動だにせず、ただ遠い水平線の一点を見据えている。長年海と共に生きたその肉体にとって、この揺れは揺りかごに等しいのだろう。
その後ろに、ヴォルフラムが大地に根を張るように佇む。その瞳はロッシと同じく遥か彼方を見つめているが、握りしめた拳は微かに震えていた。
ただ一人、ハヤトだけは手すりに片足をかけ、吹き付ける風に黒いマントをはためかせている。
「ヒャッホー! 速ぇ! こいつは最高だぜ!」
楽しげな鼻歌が、海兵たちの呻き声にかき消されることもなく響いていた。
その能天気さに、ヴォルフラムの眉間がぴくりと動く。
(……我慢しろ、私。こいつは味方だ。リナ様を救うための、重要な、『剣』なのだ……)
ギリッ、と奥歯を噛みしめる音が、風の音に混じって消えた。
その時、艦橋から伝令が転がるように駆け込んできた。その手には『囁きの小箱』が、まるで熱を帯びたように握られている。
「中将閣下! 帝都の宰相閣下より、緊急の最優先通信です!」
ロッシはそれを受け取ると、無言でボタンを押した。ノイズの向こうから響いてきたのは、宰相アルバートの、いつになく硬質で、国家の重みを乗せた声だった。
『――ロッシ中将、聞こえるか。これより皇帝陛下からの勅命を伝達する』
その一言で、甲板の空気が凍った。ハヤトさえも鼻歌をやめ、訝しげに通信機を睨む。
『アルビオン連合王国が、王国近海に秘密拠点を構築。大陸全体の平和を脅かす侵略行為の準備を進めていることが判明した。よって、中将に命ず。貴官の率いる『鋼のトビウオ』は直ちに目標海域へ急行、敵拠点を完全に殲滅せよ!』
宰相の声に続き、別の声が重なる。皇帝ゼノン本人だった。
『これは帝国だけの戦ではない。アルカディア王国のアルフォンス新王からも、正式な共同作戦の要請が届いておる。二国の平和を守るための、正義の戦だ。……分かっておるな、ロッシ!』
「はっ! 御意に!」
ロッシの力強い返答に、再び宰相の声が被さる。
『――そして、最優先事項を伝える』
声が、わずかに低くなった。
『その敵拠点に、我が帝国の『天翼の軍師』殿が、ゲッコーを伴い潜入調査を行っている。……勅命である。軍師殿の身柄の絶対的な安全確保を、何よりも優先せよ。これは、我が皇帝陛下のご意志であり、同盟国たるアルフォンス新王もまた、それを望んでおられる。我らにとって、これは至上命令であると心せよ』
「――!」
その一言が、ヴォルフラムの凍てついた理性を内側から爆ぜさせた。
リナ様が、あの危険な狼の巣に、たった一人で。
全身の血が、音を立てて沸騰する。抑え込んでいた激情が、制御不能の奔流となって溢れ出した。
「中将閣下!」
彼女の絶叫が、甲板の空気を引き裂く。
「進路変更を! 全速力で、目標海域へ! 一刻の猶予もありません!」
「落ち着け、ヴォルフラム」
「落ち着いてなどいられません! リナ様が!」
「だから、落ち着けと言っているッ!」
ロッシの雷鳴のような一喝が、彼女の激情を無理やりねじ伏せた。
彼は、娘同然と思える彼女の、燃えるような瞳をまっすぐに見据える。
「……お前の気持ちは痛いほど分かる。だがな、ヴォルフラム。焦りは事を仕損じるだけだ」
その声には、彼女への叱咤と、軍師を案じる指揮官としての重みが不器用に混じり合っていた。
「貴官が命を賭して守ると誓った主君だ。……そして俺も、両陛下の勅命を受けた。無為に死なせると思うか」
その言葉に、ヴォルフラムはハッと我に返った。
そうだ。これは私的な感情で動くべきではない。二国の威信をかけた作戦なのだ。
彼女は深く、深く頭を下げた。
「……申し訳、ございません。取り乱しました……」
「分かればいい」
ロッシは、大きな手で彼女の頭をわしわしと一度だけ撫でる。
そして彼は、艦橋に向かって、海竜の名にふさわしい咆哮を上げた。
「――機関長! 聞こえるか! エンジンのリミッターを全て解除! この船が持つ全ての力を解放しろ! 目標、『狼の巣』! ……この『鋼のトビウオ』で、忌々しい狼どもを海の藻屑にしてくれるわッ!」
号令に応え、船の心臓部からこれまでとは比較にならない轟音が響き渡る。
船体は猛烈に加速し、もはや海面を切り裂くのではなく、跳躍するように前へ進んだ。
鋼の獣が、主を救うため、真の牙を剥いた瞬間だった。