第172話:『静かなる潮流』
夜明け前の聖王都は、深い静寂と冷たい祈りの香りに包まれていた。
その敬虔な静けさとは裏腹に、帝国の高速艇『アルバティン』の一室は、蝋燭の炎すら揺らぐのをためらうような、張り詰めた空気が満ちている。
テーブルの中央に置かれた『囁きの小箱』を囲み、ライナーが夜明けを待たずして開いた緊急会議。通信機の向こうには、遠くサンタ・ルチアの港にいるマリアとセラの気配があった。
「――以上が、デニウス・ラウルから引き出した情報の全てです」
感情を押し殺したライナーの報告が終わると、小箱から重い沈黙が返ってきた。アルビオン連合王国の、大陸侵略計画。王国の内乱誘発は序章に過ぎず、最終目的は疲弊した大陸全土の掌握。あまりに壮大で、悍しい野望だった。
その衝撃は、遠く離れた船室にいる二人の呼吸さえも奪う。
『……にわかには信じがたい話です。ですが……』
セラの、血の気が引いたような声が、微かなノイズと共に響く。
『これまでの不可解な動きの全てが、これで繋がってしまいます』
「ええ。それに」
ライナーは、脳裏に昨夜の光景を焼き付けながら付け加えた。床に額をこすりつけ、号泣した男の姿を。
「あの男の告白は、命乞いの嘘ではない。……何か別の、強い何かに突き動かされている。俺の勘がそう告げています」
その言葉に、それまで沈黙を守っていたマリアの声が、小箱から響いた。
『……面白いことになりましたわね』
その声には恐怖の色はなく、まるで新たな遊戯盤を与えられたかのように、愉悦の色さえ滲んでいた。
『ライナー衛士長。少しだけ通信を切りますわ。……王国の宰相と新王に、この件を報告し、指示を仰がねば』
同盟国の代表としての、明確な線引き。ライナーは「承知した」とだけ応え、静かに通信が途切れるのを待った。
◇◆◇
夜明けの光が、王都アルカディアのステンドグラスを七色に染め始める頃。
王宮の機密室とサンタ・ルチアの船室は、二つの『囁きの小箱』によって繋がれた。
マリアが感情を排した声でアルビオンの野望を告げると、通信機の向こうで、グランとアルフォンスが息を呑む気配がリアルに伝わってきた。
『……まさか、そのような……』
アルフォンスの、まだ若い声が震えている。
『ですが、合点がいきました。近頃、我が国の沿岸警備隊から、所属不明の大型船の目撃情報が相次いでいたのです』
グランの冷静な声が、その報告を裏付ける。
「陛下、宰相閣下」
マリアが、氷のように冷静な声で議論の主導権を握る。
「この件、聖王国に訴え出るのは悪手です。彼らがアルビオンと裏で繋がっている可能性は否定できません。下手に動けば、情報を敵に渡すだけですわ」
『……では、どうすれば』
「帝国と足並みを揃えるべきです。これはもはや、王国一国の問題にあらず。大陸全体の危機として、帝国と共に立ち向かうのです。……陛下、ご決断を」
マリアの言葉に、アルフォンスは一瞬逡巡した。だが、玉座の肘掛けを強く握りしめ、やがて腹の底から声を絞り出す。
『……分かった。……帝国へ、正式に共同での対処を要請する。グラン、すぐに文書の作成を』
若き王の決断。
その言葉を隣で聞いていたセラは、静かに、しかし強く頷いた。
◇◆◇
王国側の会議を終え、セラは休む間もなく帝国へのホットラインを繋いだ。
「――宰相閣下。セラ・オーレリアです。天翼の軍師殿に関する、緊急のご報告が」
帝都、宰相執務室。
早朝にも関わらず呼び出された皇帝ゼノンと宰相アルバートは、セラからの中継で、事の一部始終を聞いていた。
報告が終わる頃には、皇帝の顔からいつもの豪放な笑みは消え、大陸の覇者たる冷徹な表情だけが残されていた。
「……ふん。眠れる獅子の髭を、つつくとはな。アルビオンの連中は、死に場所を探しているらしい」
静かな呟きと共に、皇帝は宰相に向き直る。
「アルバート。王国の要請、受けるぞ。ロッシ中将には引き続き『鋼のトビウオ』を率いさせ、リナ奪還と敵拠点殲滅の任に当たらせよ。……それと」
皇帝の目が、剃刀のように細められた。
「聖王国へは、公式には何も伝えるな。だが、水面下で圧力をかけろ。我が帝国の『天翼の軍師』誘拐に関与した疑いがあるとなれば、ただでは済まされん、と。……大神官の耳に、それとなく入れておけ」
「御意に」
外交、軍事。全ての歯車が、皇帝の一声で一斉に、しかし静かに回り始めた。
最後に、セラがデニウスの処遇を尋ねると、皇帝は「聖女殿に任せると伝えよ。彼女ならば、上手く使うであろう」とだけ応えた。
通信が切れ、サンタ・ルチアの船室に静寂が戻る。
帝国、王国。そして、その裏で糸を引く聖女。
リナ奪還という一つの目的の下、三つの巨大な力が、見えざる潮流となって動き始めていた。
◇◆◇
その夜、帝都の皇宮。
皇帝一家が囲む食卓は、いつもより静かな空気に包まれていた。豪華な料理の香りも、銀食器が触れ合う澄んだ音も、どこか遠くに感じられる。
「……帰ってきたら、しっかりと叱ってやらねばな」
皇帝が、自分に言い聞かせるように呟く。その声には、厳しさよりも深い安堵と心配が滲んでいた。
隣で、皇妃セレスティーナが憂いを帯びた瞳で、そっとカップを置く。
「ええ、そうですわね。……そして、あの子の好きなケーキを、お腹がいっぱいになるまで食べさせてあげませんと」
彼女の言葉には、リナを守るべき一人の少女として見る、母のような温かさが満ちていた。
その会話を、ユリウス皇子は黙って聞いていた。
テーブルの下、純白のナプキンが置かれた膝の上で、彼の拳が白くなるほど強く握りしめられている。爪が掌に食い込む痛みだけが、今の彼にとって唯一の現実だった。
(……僕は、また、何もできなかった……)
脳裏に浮かぶのは二つの姿。
帝国の未来を語る、銀の仮面をつけた神秘的な『天翼の軍師』。
庭園で頬を染め、はにかんでいた、守ってやりたい少女、リナ。
その二つの残像が、彼の心で激しくせめぎ合う。
彼女が遠い敵地で一人戦っているというのに、自分は安全な食卓で報告を聞くことしかできない。その無力感が、彼の矜持を鋭く苛んでいた。
「……僕も……」
絞り出すような声が、静かな食卓に落ちる。
皇帝と皇妃が、驚いて息子を見た。
「僕も、強くならなければ。いつか、彼女の隣に立って……共に戦えるように……!」
その瞳には、もはや単なる憧憬ではない。一人の男としての、嫉妬にも似た焦りと、燃えるような決意の炎が宿っていた。