第170話:『盤上の女たち』
潮の香りと魚の臓物の匂いが混じり合うサンタ・ルチアの港。その喧騒の中へ、白銀の高速艇が音もなく滑り込んでから半日が過ぎていた。
船から降り立った一行は、この猥雑な港町にはあまりに不似合いだった。
先頭に立つ聖女マリアは、顔に慈愛の笑みを浮かべ、物見高い群衆の視線を一身に浴びながらも、汚れた地面を踏むことを厭わぬように優雅に歩を進める。その数歩後ろを、侍女に扮したセラが影のように続く。感情を排した翠の瞳は、周囲の全てを冷静に観察していた。彼らを囲む巡礼者姿の男たちの分厚い胸板と、衣の下に隠されたであろう硬質な何かが、彼らがただの信徒でないことを雄弁に物語っていた。
一行が向かう先は一つ。港を牛耳る魚市場組合長の事務所だ。
扉の先では、女主人ソフィアが椅子に深く身を沈め、紫煙をくゆらせていた。腕を組み、嵐のような来訪者たちを迎え入れる。その目は海の女らしく鷹揚だが、奥には相手の骨の髄まで見透かすような鋭い光が宿っていた。
「――お初にお目にかかります。わたくし、アルカディア王国のマリアと申します」
鈴を振るような声が、埃っぽい事務所に響く。
その瞬間、ソフィアの指先で弄ばれていたパイプが、ぴたりと止まった。
(……アルカディア王国のマリア……だと? リナが言っていたマリアとは、聖女様のことだったのかい!)
内心の雷鳴を押し殺し、彼女はふてぶてしい笑みで煙を吐き出す。
「へぇ。こりゃまた、とんでもねぇ大物が来たもんだ。して、聖女様がこんな魚臭ぇ場所に、何の御用で?」
「ええ。少し、お話を伺いたくて」
マリアはソフィアの挑発的な態度にも微笑みを崩さず、単刀直入に切り出した。
「リナという、亜麻色の髪の少女をご存じありませんこと?」
ソフィアは再びパイプに口をつけ、リナがこの港で過ごした数日を、骨子だけかいつまんで語った。アルビオンの船の話、掃除婦として乗り込んだこと。そして、それ以上のことは知らない、と肩をすくめてみせる。
その時だった。
事務所の外、市場の喧騒に紛れ、戸板を叩く不規則なリズムが響いた。
ト、トト、ト……ト。
『蜘蛛の糸』の合図。
セラはマリアの横顔を一瞥する。マリアの視線が一瞬だけ鋭く細められ、すぐに元の慈愛に満ちたものに戻った。それだけで、セラには十分だった。
「少し、外の空気を吸ってまいります」
静かに席を立つセラに、マリアは「あら、そう?」とだけ返し、ソフィアとの当たり障りのない会話を続ける。二人の完璧な連携に、ソフィアは気づく由もない。
◇◆◇
事務所の裏手は、魚の樽が積み上げられた悪臭漂う路地だった。
湿った石畳の上に、影が揺らめくようにして一人の男が現れる。男はセラの姿を認めると、深く一礼した。ライナーから、彼女のことは知らされている。
「セラ様。……伝書鳩が、拠点に戻りました」
男が差し出した小さな紙片。そこに記された暗号を、セラの翠の瞳が猛禽のように素早く追い、解読していく。
リナの無事。
ゲッコーの潜入成功。
アルビオンが王国近海に築いた秘密拠点――。
セラの瞳に、張り詰めていた糸が緩むような安堵の色と、新たな戦いへの覚悟の光が、同時に宿った。
彼女は男に短く指示を与え、再び事務所へと踵を返す。
扉を開けると、マリアとソフィアがなおも言葉を交わしていた。セラは音もなくマリアの背後に立つと、彼女の肩にそっと手を置く。その指先から伝わる微かな合図。
「――まあ、ソフィア殿。ずいぶんと長居をしてしまいましたわね」
マリアは心得たように優雅に立ち上がる。
「大変、有意義なお話が聞けました。また近いうちに、お邪魔させていただきます」
完璧な聖女の笑顔に、ソフィアはただパイプの煙を燻らせて応えるだけだった。
夕暮れに染まる港を、高速艇へと戻る道すがら。
セラはマリアの耳元で、囁くように報告の全てを伝えた。
「……そう。あの子、やはり転んでもただでは起きないのね」
マリアは呆れたように、しかしどこか誇らしげに小さく息をつく。潮風が彼女のヴェールを優しく揺らした。
瞳に浮かぶのは、確かな安堵の色。
リナは生きている。そして、戦っている。
今は、それだけで十分だった。