第168話:『狼の巣、盤上の駒』
アルカディア王国近海、名もなき島嶼の一角。
潮風が切り立った断崖を絶え間なく削り、鋭い岩肌を白く晒している。その天然の要塞に抱かれるようにして、一つの入り江が息を潜めていた。
アルビオン連合王国が大陸進出の足掛かりとして築いた秘密拠点――『狼の巣』。
その日の午後、拠点司令官ダグラス准将の執務室は、海図に落ちる影のように重く、冷え切った空気に満ちていた。
磨き抜かれた机の上で組まれた指は、石像のように微動だにしない。だが、その怜悧な瞳の奥では、苛立ちという名の黒い嵐が吹き荒れている。
(……全てが、狂った)
完璧なはずの絵図は、見る影もなく引き裂かれた。
ヴェネツィアの老獪な商人ドナートを裏から操り、バルガス侯爵、ロベール伯爵を焚きつけて王国に内乱を引き起こす。疲弊しきった大地を荒らし、秩序が崩壊したその先に、アルビオンが救国の英雄として降臨する――。傀儡の王を据え、やがては大陸の版図を塗り替える。そのはずだった。
だが、現実はどうだ。
ロベール伯爵の反乱は、子供の火遊びのようにあっけなく鎮圧された。
王国はアルフォンスという若き王の下、驚くべき速さで結束を固めている。
そして何より忌々しいのは、ガレリア帝国だ。あの国は長年の戦傷など微塵も感じさせず、今や王国と手を取り合い、大陸に新たな秩序を築こうと動いている。
(……あの『天翼の軍師』……)
脳裏をよぎる、顔の見えない敵の姿。
(奴が現れてからだ。我々の策略が、ことごとく崩されていったのは……)
チッ、と苛立たしげに舌打ちした、その時。
執務室の扉が重々しく叩かれ、一人の巨漢が音もなく姿を現した。
狂戦士、バルドル。
ヴェネツィアでの任務を終え、たった今帰還したばかりのその体は、遠い地の埃と微かな血の匂いを纏っている。
「ご苦労だったな、バルドル」
ダグラスは椅子に深く身を沈めたまま、顎で向かいの席を示した。
「……聞いたであろう。我々の計画が覆されつつある」
その声には熱がない。ただ、冷たい事実だけがそこにあった。
「はっ。……あれほど早く反乱が鎮圧されるとは、計算の外にございました」
バルドルもまた、悔しそうに顔を歪める。
その時、廊下を駆けてくる荒い足音が響き、部下が息を切らして飛び込んできた。
「報告! ロベール伯爵へ輸送中でありました武器弾薬ですが、反乱鎮圧の報を受け、全船、当拠点へ引き返してまいりました!」
その言葉に、ダグラスの眉間に深い皺が刻まれる。
ダグラスは静かに立ち上がると、窓辺に歩み寄り、喧騒に満ちた入り江を見下ろした。荷揚げされる無数の木箱。その中身は、王国を内側から焼き尽くすはずだった数百丁の最新式銃。今や、行き場を失ったただの鉄の塊だ。
「……一度、立て直す」
ダグラスは静かに呟いた。
その目は、眼前の戦場ではなく、遥か海の向こう、本国の宮廷を見据えている。このまま無益な戦を続け、失敗の責任を一身に負わされるのは御免だ。己の手柄にならぬ戦場で、貴重な兵と時間を浪費するほど愚かではない。
ダグラスはバルドルに向き直ると、冷徹な指揮官の顔で、新たな命令を下した。
「――バルドル」
「はっ」
「私は本国へ帰還する。この状況を連合国王陛下に直接報告し、新たなる御裁可を仰ぐ」
「! では、この拠点は……」
「貴様に任せる」
その言葉に、バルドルの巨体が微かに震えた。
「……よろしいので?」
「ああ。私が不在の間、この『狼の巣』の全権を委ねる。残された兵と、あれも好きに使うがいい」
ダグラスの視線が、部屋の隅に置かれた異様な長物へと向けられる。黒い防水布に覆われ、その輪郭だけが不気味に浮かび上がる連射式掃討兵器――『鋼の蜂』。
「……ただし」
ダグラスは、釘を刺すように付け加えた。
「帝国と王国の連合軍が、いつこの巣を嗅ぎつけてくるか分からん。無用な戦闘は避け、守りに徹せよ。……良いな?」
「……御意に」
バルドルは深く頭を垂れた。
その俯いた顔には、抑えきれない歓喜と野心が、獣じみた笑みとなって浮かんでいるのを、ダグラスは知らない。
(……好機だ。准将が消えれば、俺の力を示す絶好の機会が……!)
ダグラスは己の保身と次なる策略に思考を巡らせるばかりで、足元で牙を研ぐ狼の飢えには気づかなかった。
その日の夕刻。
ダグラス准将と彼の子飼いの部隊を乗せた船は、誰に見送られることもなく、静かに『狼の巣』の入り江を滑り出していった。
残されたのは、主を失った巣と、膨大な武器弾薬。
そして、冷たい潮風の中、飢えた牙を月光に晒す、一匹の狼だった。