第167話:『子供の仮面と、影の鉄拳』
湿った船底に満ちていたファルコの混乱が、ようやく潮風に溶けていった頃。
私たちの船上での潜入生活は、静かに、だが確かな手応えをもって進んでいた。
昼間、私は健気な掃除婦リナを演じている。
湯気が立ち上る厨房の熱気。油と香辛料の匂いが染みついた床を、一心に雑巾で磨く。
「お疲れ様です、コック長! お皿、下げますね!」
屈託なく笑いかければ、屈強な船乗りたちも相好を崩した。
「おお、リナか。いつもすまねえな」
子供という仮面は、何より雄弁な通行証だった。その無防備な笑顔の裏で、船倉に積まれた荷の数、船員たちの口から漏れる不満の欠片、そのすべてを私が拾い集めていることなど、誰も気づきはしない。
一方のファルコは、持ち前の人の好さそうな笑顔を武器に、商人として巧みに士官たちの輪に入り込んでいた。安酒の匂いが漂う士官室で、彼は陽気にグラスを傾けながら、この船の最終目的地や任務の核心に触れる言葉を、蜘蛛の糸のように手繰り寄せる。
昼下がり、甲板ですれ違うほんの一瞬。
交わされる視線だけで、互いの成果を確かめ合う。掃除婦仲間のおばちゃんたちには「あの商人さんは昔からの知り合いで、頼りになる人なの」と伝えてある。これで、彼と私が言葉を交わしても誰も怪しまない。
そして、ゲッコー。
「……十分に、気をつけて」
昨日の日中、積み荷の影でそう告げたきり、彼はまるで船の影に溶け込んだかのように姿を見せなかった。
(……どこにいるんだろう)
けれど、不思議と不安はなかった。きっとどこかで見ている。そんな確かな信頼だけが、心の片隅に根を張っていた。
◇◆◇
その夜。
潮の香りが濃くなる船尾のデッキで、私とファルコは落ち合っていた。マストの影が長く伸び、頼りになるのは雲間から覗く月明かりだけだ。ざあ、ざあ、と波が船体を打つ音に紛れて、私たちは息を潜めて言葉を交わす。
「……やはり、この船の本当の積荷は武器のようです。アルビオン製の鉄砲とみられる物も」
「鉄砲、ですか?」
ファルコの眉がかすかに動く。
「ええ。火の力で鉄の弾を撃ち出す、恐ろしい兵器です。王国にも帝国にもない……」
「そのような物が……。目的地は王国南部の沖合にある島。そこに極秘の備蓄拠点を建設中だと」
「アルビオン連合王国の狙いは……」
核心に迫ろうとした、その時だった。
背後の闇が、音もなく人の形を成した。
あまりに突然の出現に、心臓が喉までせり上がる。
「げ、ゲッコーさん!?」
「……私が間に合わなかったら、どうするおつもりでしたか、リナ様」
それは、珍しく感情の棘を含んだ、低い叱責だった。私は思わずたじろぐ。
「い、いや、その……。まずは自分の目で状況を確かめようと……」
重苦しい沈黙を払うように、私はあえて軽く笑ってみせた。
「それに、子供って何かと便利ですから。誰も警戒しませんし」
その一言が、引き金だった。
ゲッコーの眉がぴくりと動き、夜の海よりも深い溜め息が漏れる。
「……失礼、いたします」
「……え?」
ゴツン、と鈍い音が響いた。
彼の大きな拳骨が、私の頭のてっぺんに落とされる。優しさなど欠片もない、しかし手加減はされた、確かな衝撃。
「いっ……たぁ!? ゲッコーさん、結構痛いです、それ!」
「……お仕置きです」
ぶっきらぼうにそれだけ言うと、彼は気まずそうに顔を背けた。その横顔を、ファルコが呆れたように、しかしどこか面白そうに眺めている。
「……では、集めた情報は仲間に連絡しておきましょう」
ファルコが咳払いをして、話を戻した。
懐から取り出されたのは、手のひらに収まるほど小さな伝書鳩。まだ眠っているのか、彼の指先で大人しくしている。その足に、暗号で記された極小の紙が、慣れた手つきで取りつけられていく。
『――リナ様確保。敵船、拠点へ。我らも同行す。後の対処を願う』
他にも、短い文面で必要な情報が詰め込まれていた。
「この情報はポルト・アウレオの仲間に届きます。彼らなら、すぐにライナー隊長へと繋いでくれるでしょう」
「ありがとうございます、ファルコさん」
「もとより拠点の場所はおおよそ掴んでいましたが、これで確信に変わります。……ちなみに、鳩はあともう一羽しかありません」
ファルコは準備を終えると、再び鳩を懐の奥深くへと仕舞い込んだ。
彼の静かな言葉に、私はこくりと頷いた。
その小さな翼が、帝国の仲間たちへ希望を運ぶ。そう祈りながら、私はズキリと痛む頭をそっとさする。
(……私が乗り込まなくても、ファルコさんたちだけで、いずれこの情報は掴んでいたはずだったんだ)
不器用な拳骨が残した熱が、自分の浅慮を戒めているようだった。
◇◆◇
夜が明けはじめ、東の空が乳白色に染まり始めた頃。
乗員たちの多くがまだ深い眠りについている、船上でも静かな時間。
ファルコは音もなく甲板の隅に現れ、懐から鳩をそっと取り出した。
彼は夜明けの光に目を細めながら、鳩の頭を一度だけ優しく撫でる。
「……頼んだぞ」
その手を離れた鳩は、力強く羽ばたき、昇り始めた太陽が黄金色に染める空へと舞い上がった。
それはあっという間に小さな点となり、やがて空の青に溶けていった。
その小さな翼が、帝国の仲間たちへ希望を運ぶ。