第166話:『船底の邂逅、三つ目の影』
不意に、積み荷の山にゆらりと長い影が伸びる。見回りの船員が掲げる松明の光が、じりじりとこちらへ迫ってきた。湿った木材と錆びた鉄の匂いが、じっとりと肌にまとわりつく。
「……おい。誰かいるのか?」
低く、猜疑に満ちた声が闇に響く。
その一言で、船倉の空気が剃刀のように張り詰めた。ゲッコーの全身の筋肉が、音もなくしなやかな獣のように強張る。肌を刺すような殺気が放たれ、周囲の温度が数度下がったかと錯覚するほどだった。
彼の手が、滑るように腰の短剣へ伸びる。
抜刀寸前。その凍てついた空気を破ったのは、全く別の方向から響いた、場違いなほど陽気な声だった。
「――ああ。そいつは俺の連れだ。あまり脅してやらないでくださいよ」
積み荷の陰から、ぬるりと人影が滲み出る。この船に乗り込んでから、何度か見かけた商人風の男だ。
男は馴れ馴れしく船員の肩を叩くと、その手に鈍い光を放つ何か――銀貨を、まるで手品のように指先から滑り込ませた。
「今回、荷運びを手伝ってもらってるポーターでね。どうも船酔いがひどいらしくて、ここで休んでたのさ」
船員は掌の中の重みを確かめると、途端に興味を失ったように鼻を鳴らす。
「……ふん。騒ぎは起こすなよ」
それだけを吐き捨て、ランタンの光は再び闇の向こうへと遠ざかっていった。
後に残されたのは、私とゲッコー、そして商人風の男。
ぎい、と船板の軋む音だけが、三人の間の重い沈黙を埋めていた。
ゲッコーが、鞘に収めた短剣から手を離さぬまま、地を這うような声で問う。
「……ファルコ。なぜ、お前がこの船に」
その名に、私は息を呑んだ。
(ゲッコーの知り合い? ……まさか、『影の部隊』の……?)
ファルコと呼ばれた男は、次の瞬間、人懐こい商人の仮面を音もなく剥ぎ落としていた。柔和な笑みは消え失せ、底光りする鋭い眼光が、昏い闇の中で私を射抜く。
「ゲッコー様こそ。聖王都でマリア様の大事な方をお探しに、と伺っておりましたが、まさかこのような場所でお会いするとは」
彼の視線が、値踏みするように私へと注がれる。心の奥底まで見透かそうとする、探る色だ。
「……先に移動しましょう」
ファルコは私たちを促し、船倉のさらに奥、人の気配が全くしない積み荷の陰へと導いた。
「それで、ゲッコー様。こちらのお嬢さんが、マリア様が探しておられたという……?」
その問いに、ゲッコーは私の前にすっと進み出た。そして、まるで王に傅く騎士のように、深く、恭しくこうべを垂れる。
「――リナ様。こちらはファルコ。王国に残っていた、我々の仲間の一人です」
そして、彼はファルコへと向き直り、静かだが揺るぎない声で告げた。
「ファルコ。お前に紹介する。この方こそ、我らが主君」
ゲッコーはそこで一度言葉を切り、はっきりと続けた。
「――帝国軍『天翼の軍師』、リナ様であられる」
その、あまりに重い響きに、ファルコの空気が凍りついた。
彼はまるで、理解を超えた言葉を聞いたかのように、呆然と尋ね返す。
「……ゲッコー様。……まさか、この、お嬢さんが……?」
「はじめまして、ファルコさん」
私が声をかける。
その瞬間、ファルコの常に冷静だったポーカーフェイスが、音を立てて砕け散った。
彼の目が、信じがたいものを見るように大きく見開かれ、私の顔とゲッコーの顔を、壊れた人形のように何度も、何度も往復する。
「……て、天翼……? あの、軍師様が……こんな、小さな女の子……? それで、なぜ、このような危険な場所に……?」
あまりの衝撃に、彼の思考は完全に停止していた。
(ああ、そうか。この人にはまだ、軍師が少女だという情報は届いていなかったんだ。帝国からも王国からも、ここは遠すぎる……)
久しぶりに見るその反応に、私は少しだけ申し訳ない気持ちになる。
「おい、ファルコ! しっかりしろ!」
呆然と立ち尽くすファルコの肩を、ゲッコーが強く揺さぶった。
湿った船底に、男の混乱だけが取り残される。遠くで波が船体を叩く音だけが、やけに大きく響いていた。