第164話:『暁の海、鋼の咆哮』
南の軍港都市『アクア・ポリス』は、何日も、眠りを忘れていた。
夜の帳が下りても港は不夜城のように煌々と照らされ、その中心に鎮座する巨大ドックからは、昼夜の別なく鋼を打つ槌音が木霊する。職人たちの怒号が潮風に乗り、時折、試運転されるエンジンが地を揺るがす咆哮を上げた。鉄の焼ける匂いと高温の蒸気が、常に街の空気に混じっている。
「――いいぞ! もっとだ! 出力を上げろォ!」
その熱狂と混沌の只中で、マキナが吼えていた。汗と油にまみれた顔に、紅蓮の火花が飛び散る。彼女の瞳には、狂気にも似た創造の光が爛々と宿っていた。
目の前には、異様な威容を誇る一隻の船。
『鋼のトビウオ』が、その巨体を横たえて進水の時を待っている。
水を切り裂くためだけに存在する、流線形の船体。
敵艦の腹を喰い破るであろう、船首に備えられた巨大な衝角。
そして船尾には、彼女が心血を注いだ改良型の高出力蒸気エンジンが、まるで怪物の心臓のように黒く、不気味な熱を放ちながら鎮座していた。
緊迫した空気が張り詰めるドックのすぐ隣。
静かな湾内を切り裂いて、一つの黒い弾丸が海面を滑走していた。
「うぉ!おおぉぉお!やばいぜ! おれはこいつとぉ!風になってやるぜ!はーっはっはっは!」
黒い仮面に顔を隠したハヤトが、マキナが試作した小型の『蒸気ジェット船』に乗り、子供のようにはしゃぎ回っている。彼が「面白そうだ」と倉庫の隅から引っ張り出させた試作エンジンは、今や彼の愛機の心臓となり、船は常軌を逸した速度で紺碧の海を駆けていた。
その有り余るパワーは急激な旋回を可能とし、最高速到達を瞬時に終わらせ、そして波のうねりを踏み台に船体をしならせ、時折、飛沫を虹色にきらめかせながら空中へと跳ね上がり宙を舞う。その動きはもはや船というより、水面を跳ねる獣のようだ。
その人間離れした光景を、桟橋の上で一人の女騎士が冷え冷えとした視線で見つめていた。ヴォルフラムだ。彼女の額に、いつの間にかじっとりと冷や汗が浮かんでいる。
(……『剣聖』……なんと子供じみて……。だが、あの常人離れした反射神経と身体能力は……やはり、化け物か……)
◇◆◇
やがて、進水の時が来た。
船体を支えていた最後の支柱が外される。
ギギギ……と、巨体が軋む低い呻きを上げ、ゆっくりと海へと滑り出していく。
「――火を入れろ!」
マキナ自らが機関室に飛び込み、レバーを押し込んだ。
ゴゴゴゴゴゴ……!
腹の底に響く振動と共に、船全体が震える。猛烈な勢いで黒煙と蒸気が噴き上がり、『鋼のトビウオ』は帆もなしに、ありえない速度で湾内を滑り始めた。
ハヤトが駆るジェット船ほどの瞬発力はない。だが、この巨体が安定してこの速度を維持することの異常さ。
その光景に、ドックを埋め尽くしていた船大工たちが、それまでの疲労も忘れ、割れんばかりの歓声を上げた。
実験は、成功だ。
沸き立つ喧騒の中、ロッシ中将がタラップを駆け上がってきた。
その顔に、いつもの豪放な笑みはない。全てを見通すような、厳しい司令官の双眸がマキナを射抜いた。
「見事だ、マキナ局長。これより荷を積み込む! 食料、水、燃料、そして武器防具! 四時間で終わらせろ!」
「全乗組員に通達! 我が『鋼のトビウオ』はこれより整い次第出港する! 総員、直ちに出港準備せよ!」
号令に応えるかのように、黒い獣が駆けてくる。
「お! 出るのか! よっしゃ!」
ハヤトが水飛沫を上げて船体に横付けすると、自分の愛機と化している小型船を親指で指し、まるで当然のように言い放った。
「――おい! こいつも積んでいってくれよな!」
その、あまりに空気を読まない一言に。
ヴォルフラムの額に、ぴきり、と青筋が浮かんだ。
(……我慢だ、私……。こいつは味方……。リナ様を救うための、重要な、『剣』なのだ……)
ギリッ、と奥歯を噛みしめる音。握りしめた拳の震えを、彼女は必死で抑え込んでいた。
マキナはそんな二人を一瞥すると、心底呆れたように深いため息をついた。
「……はぁ。分かった、分かったよ! 後部甲板にクレーンで吊るしとけ!」
こうして、少しだけ騒がしい最強の剣と、我慢強い最強の盾を乗せて。
リナが待つ(はずの)大海原へと、その鋼の翼を広げた。
まだ陽の高い、暁と呼ぶには早すぎる空の下。
船は東を目指す。