第16話:『帝都への凱旋と小さな軍師』-
男爵叙任の報は、熱を帯びた噂のままでは終わらなかった。
数日後、鷲の紋章が押された皇帝陛下の勅令が、陣営に厳かに届けられたのだ。『東部戦線の謎の軍師』を帝都へ召還する、と。
表向きは、叙任式と戦勝祝賀会のため。だが羊皮紙の文字の裏には、帝国の頂点に立つ者たちが「謎の英雄」の正体をその目で見定めようとする、冷徹な意志が透けて見えた。
「……行くしかない、か」
グレイグは勅令をテーブルに置き、絞り出すように息を吐いた。
「だが、無策で帝都の狐どもの巣に飛び込むほど、お人好しではない」
彼は私とセラ副官の顔を順に見て、断固たる口調で命じる。
「リナ。帝都でも、お前は『謎の軍師』のままだ。あのローブと輿は決して手放すな。いいな?」
「……はい」
「セラ、お前も同行しろ。リナの護衛、そして監視役だ。貴族のクズどもが余計なちょっかいを出さぬよう、常に目を光らせておけ」
「はっ、お任せください」
セラ副官の力強い返事に一つ頷くと、グレイグはペンを執り、皇帝陛下と宰相閣下に宛てた極秘の親書を、迷いのない筆致で書き始めた。
◇
数日の旅を経て、我々の部隊は帝都へと凱旋した。
石畳の道の両脇を、帰還を歓迎する民衆が幾重にも埋め尽くしている。彼らの視線が注がれる先はただ一つ――私が乗る、深紅の帳が下ろされた豪華絢爛な輿だった。
「軍師様だ!」「帝国万歳!」「賢者様、どうかお顔を!」
熱狂が波となって押し寄せ、馬車の窓をビリビリと震わせる。私は帳の隙間からその光景を眺め、(早くこの茶番、終わらないかな……)と、一人うんざりしていた。
王宮に到着し、案内されたのは壮麗な謁見の間ではなく、奥まった一室だった。グレイグが送った親書の条件が、呑まれた証だ。
重い扉の先で我々を待っていたのは、このガレリア帝国における権力の頂点に立つ二人の男。
一人は、壮年の威厳を獅子のように漂わせる皇帝ゼノン・ガレリア陛下。
もう一人は、その傍らに影のごとく佇み、切れ長の目に剃刀のような光を宿す宰相アルバート公爵。
部屋には他に、壁に溶け込むように立つ数名の近衛騎士がいるだけだった。
「……よく来た、東部戦線の英雄よ」
皇帝の静かな声が、張り詰めた空気を揺らす。その探るような視線は、私の乗る輿に突き刺さっていた。
「面を上げよ。その顔を見せよ」
その言葉に、グレイグが一歩前に進み出る。
「お待ちください、陛下。その前に、一つご理解いただきたい儀がございます」
「何だ、グレイグ将軍。陛下の御前を遮るか」
宰相が、氷のように冷たい声で咎める。
だが、グレイグは怯まなかった。彼は皇帝と宰相をまっすぐに見据える。
「これからご覧いただくは、我が軍、ひいては帝国の未来を左右する最高軍事機密。この場にいる者全て、今日ここで知ることを決して外に漏らさぬと、お約束いただけますでしょうか」
「……ほう。面白い」
皇帝の唇が、興味深そうに歪んだ。「よかろう。余と宰相、そして近衛の名において約束する」
その言質を待って、グレイグは輿に近づき、深紅の帳をそっと開いた。
「……リナ。おいで」
優しい声に促され、私はおずおずと輿から降り立つ。
フード付きのローブを脱ぎ、変声機を外す。
そこに現れたのは、神のごとき智謀を持つ大賢者でも、百戦錬磨の老軍師でもない。
少し洒落たワンピースを着た、どこにでもいる八歳の少女だった。
部屋が、凍りついた。
皇帝も、宰相も、屈強な近衛騎士たちさえも、見開いた瞳のまま呼吸を忘れ、目の前の光景を信じられぬと固まっている。
時が止まったかのような沈黙を、グレイグが破った。
「陛下。これが、この場を設けさせていただいた理由にございます」
彼は私の肩にそっと手を置き、言葉を続ける。
「この者こそ、東部戦線に勝利をもたらした『謎の軍師』の正体。リナ・フォン・ヴァール……いえ、今はまだ、リナ。我が部隊の特務書記官にございます」
しばしの静寂の後、宰相がかすかに声を震わせた。
「……馬鹿な。ありえん。このような、子供が……?」
「冗談も大概にせよ、グレイグ将軍!」
近衛騎士の一人が叫ぶ。
だが、皇帝はそれを手で制した。その瞳の奥で、驚愕が急速に炯眼なる洞察力へと変わっていく。彼は私をじっと見つめ、尋ねた。
「……そなたが、リナか。あの暗号を解き、敵の策を見破り、『剣聖』を罠にかけた、と?」
その問いに、私はこくりと小さく頷いた。
次の瞬間。
皇帝はそれまでの威厳をかなぐり捨て、腹の底から豪快に笑い出した。
「わっはっはっはっは! 面白い! 実に、面白いではないか!」
彼は玉座から立ち上がると、大股で私の目の前までやってきた。
「この小さき者が、あれほどの武功を立てるとは! 我が帝国も、まだまだ捨てたものではないわ! グレイグ、貴様、とんでもない宝を見つけおったな!」
グレイグが、心底安堵したように息を吐くのが分かった。
「なぁ、リナとやら」
皇帝は私の目線に合わせるように、少しだけ膝をかがめた。
「これから、そなたがどれほどのものとなるか楽しみでならぬ。余も、そなたと友誼を結びたいものだ! いや、愉快、愉快!」
そして彼は宰相に向き直り、きっぱりと命じた。
「叙任式は予定通り行う。だが『謎の軍師』は、顔を見せぬままとする。リナの正体は、今日この場にいる者だけの絶対の秘密とせよ」
皇帝の言葉が、厳かに部屋に響き渡った。
「――これは、勅命であるぞ」