第162話:『一条の光、絶海への跳躍』
聖王都でマリアたちが偽りの航路に翻弄されている、まさにその頃。
陽光が石畳を焦がし、逃げ水が揺らめく港町『サンタ・ルチア』に、一人の男が降り立った。
頬を走る深い傷跡が、彼がくぐり抜けてきた修羅を無言で物語る。纏う空気は硝煙のように乾き、射抜くような瞳の奥には、揺るぎない目的の色だけが昏く宿っていた。
男の名は、ゲッコー。
彼の脳裏には、ただ一つの情報が烙印のように焼き付いている。
『賢くて元気なお嬢ちゃんが、魚市場にいるらしい』
あまりに朧げで、千切れかけた蜘蛛の糸のような手がかり。
だが、今の彼にとって、それは闇を照らす唯一の篝火だった。
凪いでいたはずの心が、焦燥にじりじりと蝕まれていく。
プロとしての冷静さをかなぐり捨て、外套で顔を隠すのももどかしく、ゲッコーは一直線に魚市場の心臓部へとその身を投じた。
鼻腔を刺す、むせ返るような潮と魚の匂い。血の気の多い漁師たちの怒号が、熱気と共に渦を巻いている。彼はその全てを削ぎ落とし、ぬかるんだ地面を踏みしめながら、ただ一つの問いを投げ続けた。
「……亜麻色の髪をした、小さな女の子を知らないか」
「……字が読めて、計算が得意な賢い子だと聞いている」
その声は、市場の喧騒にかき消され、まるで意味をなさなかった。
返ってくるのは、値踏みするような冷たい視線か、あるいは侮蔑の滲む沈黙だけ。
「知らねぇな」
「そんな都合のいいガキが、こんな掃き溜めにいるもんかよ」
街全体が、見えざる誓いで口を噤んでいる。ソフィアという女と交わされた約束が、鉄の壁となって彼の前に立ちはだかっていた。
その、ゲッコーらしくない無防備な行動を、雑踏に紛れた一つの影が見ていた。この街に張り巡らせた『蜘蛛の糸』の一人だ。
(……まずい。あれはゲッコー様では? なぜあのような真似を……!)
影は魚売りのふりをしてさりげなくゲッコーに近づくと、すれ違いざま、彼にしか聞こえぬ声で囁いた。
「――こちらへ」
ハッと我に返ったゲッコーは、声の主を追い、人目につかぬ路地裏へと滑り込む。
「ゲッコー様。らしくないご行動です。何が?」
影の問いに、ゲッコーは乾いた唇で簡潔に告げた。
「『賢くて、元気な、お嬢ちゃん』を探している。最優先事項だ」
その言葉に、影は息を呑んだ。市場で噂の、あの少女のことか。
「……その娘なら、魚市場の『姐さん』が匿っています。事務所はあちら。急ぎましょう!」
二つの影が、市場の裏路地を疾駆した。
◇◆◇
その少し前。
出港前の狂騒に包まれた第七倉庫の前で、ソフィアはリナの小さな背中を見送っていた。灰色の、ぶかぶかのワンピース。その背がやけに頼りなく見える。
「……気を付けていくんだよ」
絞り出した声は、けたたましいカモメの鳴き声と船乗りたちの怒号に掻き消された。船はまだ山のような荷物の積み込みを続けている。全てが終わるまでここにいては、かえって怪しまれる。彼女は一度だけ強く手を振ると、断ち切るように踵を返し、事務所へと戻っていった。
その扉が、蹴破られんばかりの勢いで開け放たれたのは、彼女が席の椅子に深く腰を下ろした、その直後だった。
飛び込んできた男の殺気に、ソフィアの眉が鋭く吊り上がる。
「……あんた、誰だい。随分と物騒なご挨拶じゃないか」
「――あの子は、どこだ」
地を這うような低い声が、部屋の空気を震わせた。
「俺の名は、ゲッコー。……あの子を、迎えに来た」
その名を聞いた瞬間、ソフィアの鋼のような表情が、わずかに揺らいだ。
(……ゲッコー……!)
脳裏に、リナの顔が蘇る。震える声で託された名。
(万が一、この人たちが探しに来たら……『私の、大切な人だから、本当のことを教えてあげて』……)
ソフィアは、覚悟を決めて立ち上がった。
「……あんたが、ゲッコーさんかい」
彼女は忌々しげに舌打ちを一つすると、悔しそうに顔を歪める。
「ちっ! 間に合うかどうか分からないよ! あの子なら、もうアルビオンの輸送船に乗っちまった! 荷積みもそろそろ終わる頃だろう、港に急ぎな!」
「何!?」
ソフィアの言葉が終わるより早く、ゲッコーの身体は反転していた。
彼は事務所を飛び出すと、待機していた『蜘蛛の糸』に鋭く命じる。
「リナ様はアルビオンの船上だ! 港へ急ぐぞ!」
市場の雑踏が、モーゼの奇跡のように割れていく。人々の驚愕の表情を置き去りに、その影は港へと疾走した。だが、闇雲に船着き場へ向かうのではない。彼は最短距離で市場で最も高い倉庫の屋根へと駆け上がった。
眼下に広がる港の全景。無数のマストが林立し、カモメが空を舞う。その中で一際大きな輸送船が、最後の係留ロープを外されようとしていた。
ゲッコーの鷹の目が、豆粒ほどの船上の人々を舐めるように走査する。
そして、見つけた。
甲板の隅。他の掃除婦たちに紛れ、不安そうに港を見つめる小さな影。
日に焼けて色褪せたワンピース。煤で汚れた顔。無造作に結われた髪。
だが、その背筋の伸びた立ち姿。不意に見せた微かな仕草。ゲッコーの目は、その粗末な変装の奥にある魂の気高さを、決して見誤らなかった。
(……間違いない! リナ様だ!)
「――伝えろ!」
追いついてきた『蜘蛛の糸』の肩を鷲掴みにし、ゲッコーは獣のように咆えた。
「リナ様発見! アルビオン船上! ……俺は潜入する! あとは、頼んだぞ!」
言葉は、風の中に置き去りにされた。
伝令が愕然と口を開くより早く、ゲッコーの身体は既に動いていた。
バキィッ!と乾いた破砕音を立てて屋根瓦が砕け散る。彼は屋根の急斜面を、まるで垂直の崖を駆け下りるかのように滑走し、その先端から躊躇なく虚空へと身を躍らせた。
落下ではない。飛翔だ。
三階建ての建物の壁面に突き出ていた店の看板を爪先で蹴り、爆ぜるように軌道を変える。真下の路地に干されていた洗濯ロープの上を瞬時に駆け抜け、対面の建物の窓枠に指を掛けて体勢を制御した。彼の動きに、重力という概念は存在しないかのようだ。
地上に降り立った瞬間、その身体は沈み込むように衝撃を殺し、再び弾け飛んだ。
積み上げられた魚の木箱を跳び箱のように越え、人がすれ違うのがやっとの路地で、左右の壁を交互に蹴って駆け上がる。彼の通過した跡には、ひっくり返った荷車と、何が起きたのか分からずに空を見上げる人々の呆然とした顔だけが残された。
目の前を黒い一陣の風が通り過ぎ、野良犬がキャン!と悲鳴を上げて道の隅に飛びのいた。
「……人!?」
人々の叫びは、もはや彼には届かない。
視線の先、岸壁を離れゆく巨大な船体。
船と岸壁の間に、暗く冷たい海水が広がっていく。その距離、五メートル、六メートル……! 刻一刻と、絶望が形を成していく。
だが、ゲッコーの瞳に迷いはなかった。
彼は岸壁の縁、船を繋ぎとめていた最後の係留杭へと全速力で突進する。そして、その鉄の塊を足場に、人間の限界を超えて天を衝くように跳躍した。
空中で、彼は鳥のようにしなやかに体を捻った。ぐん、と飛距離が伸びる。
目標は、船尾の装飾が作り出すわずかな影。
ドン!という鈍い衝撃音は、船がきしむ音と荒い波の音に呑み込まれて消えた。彼は船体に激突する寸前、全身の関節をバネのように使い、その運動エネルギーを完璧に殺しきっていた。
指先が、船体の大き目のリベットの凹凸を鷲掴みにする。足の爪先が、正確に壁面に存在する僅かな凹凸を掴む。
まるで巨大な獣に張り付いた一匹の蜘蛛。
彼はそのまま音もなく舷側を駆け上がり、船尾から垂れ下がる巨大な錨鎖の影に、溶け込むようにその身を潜ませた。