第161話:『偽りの静寂、真実の羅針盤』
鉛色の雲が空を覆い、聖王都『蓮華』の港は息を殺していた。
停泊する最新鋭の高速巡航艦『アルバティン』。その船室にも、外と同じ重く湿った空気が澱のように溜まっている。マリアが張り巡らせた蜘蛛の糸のような噂の網は、ただ虚しく揺れるだけ。完璧なはずだった推理は、音もなく足元から崩れ去っていく。
カラン、と澄んだ音が響いた。
手にしたグラスの中で、溶けかけた氷が虚しく壁を打つ。その冷たさだけが、今のマリアにとって唯一の現実だった。己の才覚への絶対的な確信が、指の間から砂のように零れ落ちていく。
その息の詰まるような静寂を、唐突な轟音が引き裂いた。
木製の扉が砕けるのではないかと思えるほどの、乱暴な打撃音。
返事をする間もない。錠が弾け飛ぶ甲高い金属音と共に扉が内側へ開き、一人の男が転がり込んできた。ライナーだった。
肩で荒い息を繰り返し、額から滴る汗が磨かれた床に染みを作る。その手には、一枚の羊皮紙が汗で湿りながらも、まるで命綱のように固く握りしめられていた。彼が街に放った『影』からの、血の匂いがするような急報だった。
「――セラ様、マリア様」
無理に抑えようとする声が、かえってその震えを際立たせる。
「サンタ・ルチアの港へ向かった『影』より……緊急の伝言です」
その港の名に、窓の外へ虚ろな視線を投げていたセラが、弾かれたように顔を上げた。
ライナーはごくりと喉を鳴らし、震える指で羊皮紙を広げる。そこに滲むインクの染みを、魂ごと焼き付けるかのように読み上げた。
「――『リナ様、発見。……ただし、アルビオン連合王国の輸送船、その船上にて』」
空気が凍てついた。
マリアとセラ、二人の呼吸が止まる音が、やけに大きく船室に響く。
サンタ・ルチア。アルビオン。
濃霧の中に散らばっていたピースが、最もあり得ない場所で、一本の赤い線を結んだ。
ライナーは続ける。その声には報告者としての使命感と、仲間を案じる苦渋が痛々しいほど滲んでいた。
「……ゲッコー殿からの、最後の言伝だそうです」
彼は一度言葉を切り、喉の奥から絞り出すように告げた。
「――『雛は、自ら狼の巣へ。……俺も続く。……あとは、頼む』」
ライナーは顔を伏せ、ほとんど呻くように付け加えた。
「その言葉を最後に、ゲッコー殿は単身その船へ……。リナ様の保護に向かわれた、と……」
しん、と部屋が静寂に支配される。
だが、それは先ほどまでの絶望ではない。濃い霧の向こうに、微かだが確かな閃光が走ったような、張り詰めた静寂。
リナは生きている。
そして彼女の傍らには、帝国最強の『影』がいる。
「……そう……」
マリアが、細く長い息を吐いた。
そして、水が流れるようにゆっくりと立ち上がる。俯いていた顔が上がり、その蒼い瞳からもはや迷いの影は消え失せていた。そこに宿るのは、獲物の急所を見定めた狩人だけが放つ、獰猛で怜悧な輝き。
彼女の視線が、部屋の隅で腕を組み、静かに報告を聞いていた一人の男を射抜く。帝国海軍が誇る策略家、エンリコ・ダンドロ少将。
「――少将。お聞きになりましたわね?」
「ええ。実に興味深い展開になってきましたな」
エンリコは優雅な笑みを唇に浮かべた。だが、その目は全く笑っていない。凪いだ深海のように冷たい光が、プロフェッショナルとしての非情さを物語っていた。
彼は音もなくテーブルへと歩み寄り、広げられた海図を長い指でなぞる。
「サンタ・ルチアを出港したアルビオンの大型輸送船。行き先は王国方面……ですか」
その指が、羊皮紙の上を滑らかに走った。
「考えられる航路は三つ。最短だが危険な暗礁地帯『悪魔の喉笛』。遠回りだが安全な『乙女の涙』。そして……」
彼の指が、ぴたりと止まった。
アルカディア王国の目と鼻の先、いくつかの無人島が浮かぶ海域。
「――ここだ。この島嶼部。数年前から、所属不明の船が頻繁に出入りしているという噂は私も聞き及んでいます」
エンリコの目が、剃刀のように細められた。
「何を企んでいるかは不明。ですが、ただの輸送にしては動きが組織的すぎる。……何らかの軍事行動への布石と見るべきでしょう」
その不穏な、しかし確信に満ちた分析に、誰もが息を呑んだ。
すべてはまだ霧の中。だが、羅針盤の針は確かに、その危険な海域を指し示している。
「――セラ!」
マリアの声が、氷を砕くように鋭く響いた。
「すぐにアクア・ポリスのマキナへ連絡を! 『鋼のトビウオ』の完成を急がせ、一旦、最速でポルト・アウレオへ向かえと!」
「そして、私たちは一度サンタ・ルチアへ寄って、そこでアルビオンの輸送船の詳細な情報を得るわよ!」
彼女の一声が、止まっていた歯車を無理やり回したかのように、船室の空気を震わせた。
マリアはもはや、ただ打ちひしがれた聖女ではない。
リナ奪還作戦の最高司令官として、その唇にいつものしたたかな笑みを浮かべていた。
「面白いじゃないの」
彼女は窓の外、遥か彼方の水平線を見据える。鉛色の雲の切れ間から、一筋の弱い光が差し込んでいた。
「アルビオン連合王国……。喧嘩の売り方というものを、骨の髄まで教えて差し上げますわ」
停滞していた帝国の追跡者たちは、ついに真実の航路を見出した。
今日はここまでにて。
Xアカウントを作ろうとしていたら、あっという間に時間が...またにしましょう。
ストックが減って来てるのに、何しているんだか...(汗)