第160話:『南の港に、翼は集う』
どこまでも突き抜ける青い空。
南の海は、全てを飲み込んで鏡のように凪いでいた。
帝国南部方面軍拠点、軍港都市『アクア・ポリス』。
陽光を照り返す街並みが目を灼く。
その最も巨大なドックは帝国最高レベルの機密区画と化し、今や昼夜を分かたず、凄まじい熱気と喧騒に支配されていた。
鉄の焼ける匂い、油の匂い、そして男たちの汗の匂いが渦を巻く。その中心で、マキナの怒声が炸裂した。
「――違う! 竜骨との接合部の強度が足りてねえ! そんな仕事で、大海の藻屑になりてえのかお前らは!」
ドックの中央には、ロッシ中将が提供した完成間近の最新鋭フリゲート艦が、その美しい船体を横たえている。だが、巨大な船腹には無残な穴が穿たれ、改良型の高出力エンジンが巨大なクレーンで吊り上げられていくところだった。
鋼の心臓移植。それが、この狂騒の正体だ。
その時だった。けたたましい蹄の音が響き渡り、一人の黒騎士が乾いた土煙を巻き上げて駆け込んできた。
『黒曜の疾風』ハヤト。
王都でグランから「マリアがお前を必要としている」と聞くや、文字通り眠らず食わずでこの南の果てまで駆けてきたのだ。
「――それで、マリアはどこだ! 俺にしか解決できねえ一大事が起きてるんだろうな!?」
意気揚々と馬から飛び降りて叫ぶ彼に、マキナは油まみれの顔でちらりと視線を寄越しただけだった。
「……あんたか。悪いが、聖女様はここにはいねえよ。とっくに先発隊として聖王国へ向かわれたらしい」
「はあ!?」
「詳しい話は、あそこにある『小箱』で直接聞きな」
マキナが顎で示した先の通信室で、ハヤトは聖王都のマリアと回線を繋ぐ。
『――ようやく来たのね、あんぽんたん。いいこと? あなたの本当の出番は、マキナさんの船が完成してから。それまでしっかり英気を養っておきなさい。最高の舞台で、最高の活躍を期待してるわ』
「お、おう! 任せとけ!」
◇◆◇
もう一人、長い旅路の果てにアクア・ポリスへたどり着いた者がいた。
ヴォルフラム。
土埃に汚れた旅装束の彼女は、喧騒のドックではなく、まずこの軍港を統べる主の元へと足を運んだ。
南部方面軍司令部の、重厚な扉を叩く。
「――入れ」
中から響いたのは、聞き慣れた、腹の底から揺さぶるような豪放な声。
ヴォルフラムは扉を開け、中へ進み出ると、その場で深く、深く片膝をついた。
執務机の向こう。そこに座していたのは、少し白髪こそ増えたものの、全く変わらぬ海の覇者の風格を纏う男。
“海竜”オルランド・デ・ロッシ中将。
「……ヴォルフラムか。よく戻った」
椅子に腰掛けたまま、ロッシは目を細めて彼女を見る。その視線は鋼のように厳しく、そして、どこまでも海の凪のように温かい。
「ずいぶんと顔つきが変わったな。北の鬼軍曹殿のシゴキは、よほど効いたと見える」
「はっ。閣下も、お変わりなく」
「はっはっは。俺はいつでも海の上よ」
ロッシは立ち上がると、ヴォルフラムの前まで歩み寄り、その肩を大きな手で力強く掴んだ。
「辛かったろう。リナ殿のことは、セラ殿から聞いている。……だが、お前はもう、あの日の無力な小娘ではあるまい」
父親のような言葉に、ヴォルフラムが必死に保っていた鋼の仮面が、微かに揺らいだ。
そして、ロッシは少しだけ声を潜める。
彼女がこの十年間、心の奥底で凍らせてきた問いの、その答えを。
「……ヴォルフラムよ。イリアの件だがな」
「!」
強張る体の震えが、肩を掴むロッシの手に伝わった。
「あれからずっと、俺の手の者を使って追わせてはいる。だが……」
ロッシは苦渋の表情で、緩やかに首を横に振った。
「大したことは分からんかった。あの子を買い取ったという商人にはたどり着いた。だが、その男は口を割る前に何者かに消された。背後にどんな国がいるのかも、全く掴めんままだ。……すまんな、ヴォルフラム。力になれんで」
その言葉に、ヴォルフラムはただ静かに目を閉じた。
怒りでも、悲しみでもない。ただ、冷たく重い現実が、音もなく胸に突き刺さる。
妹は、まだどこか遠い場所で生きている。
そして、その手がかりは、未だ底なしの闇の中。
「……いえ」
彼女は顔を上げた。その蒼い瞳に、もはや迷いの色はなかった。
「閣下のお心遣い、感謝いたします。ですが、今はただ一つのことだけに集中いたします」
その声には、焼き入れされた鋼の覚悟が宿っていた。
「――リナ様を、救い出す。二度と、同じ過ちは繰り返しません」
成長した弟子の姿に、ロッシは満足げに大きく頷いた。
「うむ。ならば行け。マキナという面白い小娘が、ドックでお前を待っている。お前の力も、必ず必要になるだろう」
◇◆◇
ヴォルフラムは司令部を後にし、マキナが指揮を執るドックへと向かった。
主君を救うための最後の希望。その『鋼のトビウオ』を、この目で確かめるために。
そして、彼女は見てしまった。
マキナが試作した小型の『蒸気ジェット船』に乗り込み、けたたましい音と白い水飛沫を上げながら港内を猛スピードで滑走し、
「ヒャッホー! 速ぇ! こいつは最高だぜ!」
と、子供のようにはしゃぎ回っている、黒い仮面の男の姿を。
『黒曜の疾風』。ハヤト。
その姿を認めた瞬間、ヴォルフラムの全身の血が、音を立てて凍りついた。
脳裏に、あの夜の悪夢が灼きつくように蘇る。
倉庫の暗闇。一瞬で弾き飛ばされた自分の剣。そして、幼い主君を小脇に抱え、闇の中へと消えていく、あの忌々しい背中。
「…………」
無意識に、腰の剣の柄を握りしめていた。指の関節が白く浮き出るほど、強く。
憎しみと屈辱が、腹の底からマグマのようにせり上がってくる。
今すぐあの喉笛に飛びかかり、この手で斬り刻んでやりたい。
だが、彼女は動かなかった。
奥歯を強く噛みしめ、燃え盛る激情を、理性という冷たい鋼の枷で必死に押さえつける。
(……今は、ダメだ)
(こいつは今、味方だ。リナ様を救い出すための、重要な『戦力』)
(それに……)
自覚している。今の自分では、まだこの人外の領域にいる男には届かない。激情に任せて斬りかかり返り討ちにあうことこそ、リナ様の救出を遠ざける最悪の愚行だと。
ヴォルフラムは、ゆっくりと息を吐き、目を閉じた。
再び目を開けた時、その瞳の奥の炎は、深い、深い湖の底へと沈められていた。
彼女は水面を滑る男に背を向け、マキナの元へと歩み寄る。その背筋は、軍人としての完璧な自制心を示していた。
「――マキナ局長。私も何か手伝おう」
その感情を削ぎ落とした静かな声に、マキナが振り返った。
「おお、助かるぜ。ちょうど、船体の装甲板の強度テストで人手が欲しかったところだ」
リナを救い出す、というただ一つの目的の下。
帝国と王国の最強の翼たちが、この南の港で、奇妙な邂逅を果たした。
彼らが一つの刃として機能するには、まだ多くの葛藤と時間が必要だろう。
だが、灼熱の太陽の下で、運命の歯車は軋みを上げながらも、確かに回り始めていた。