第157話:『空の檻、聖女の糸』
聖王都『蓮華』の港。
潮風が錆と魚の匂いを運び、停泊する商船『海燕』の船体が、威圧的な影を落としている。
マリアはその船体を見上げ、微かにため息を漏らした。
(……全く、面倒な置き土産を残してくれたものだわ、あの子は)
あの小さな軍師が残していった厄介な謎かけに、内心で毒づく。
彼女の背後には、緊張した面持ちのセラとライナー、そしてエンリコ少将が手配した腕利きの海兵たちが静かに控えていた。
聖王宮から下された「少女誘拐の嫌疑による船内検閲」という大義名分。それは、マリアが強引な外交手腕でこじ開けた、敵の懐へと続く扉だ。
「――参りましょうか」
凛とした声が響くと、一行は重い足取りでタラップを登り始めた。
◇◆◇
一歩足を踏み入れた瞬間、船内の空気が肌に突き刺さった。
油と木材の匂いに混じって、あからさまな敵意と警戒が満ちている。すれ違う船員たちの誰もが、まるで侵入者を値踏みするかのように、硬い表情でこちらを睨みつけてきた。
船長に案内された賓客用の船室は、掃き清められ、綺麗に整えられていた。だが、そこには誰かが暮らしていた気配だけが、シーツに残る微かな温みのように、虚しく漂っている。
「……何も、ありませんわね」
セラが落胆の声を漏らした、その時。
マリアの鋭い目が、ベッドの下、床板に刻まれたごく微かな傷を見逃さなかった。
彼女は誰にも気づかれぬよう、何気なく屈みこむ。豊かに広がるドレスの裾が、周囲の視線から床板のその一点を隠す。冷たい指先が、微かな傷の輪郭をそっと、なぞった。
一見、ただの悪戯書き。
だが、その文字は、彼女だけが知る前世の言葉――日本語だった。
『にげられないか、ためす りな』
息が、止まった。
心臓が喉の奥で跳ねる。
(……あの子……!)
こんな絶望的な状況下で、こんなにも冷静なメッセージを残していたというのか。リナは確かにこの船にいた。そして、自らの意志でここから姿を消したのだ。
マリアの胸に、安堵と、そしてあの小さな少女への呆れたような感嘆が同時に込み上げてくる。
「……少し、船員の方々ともお話をさせていただけますか?」
マリアはすっくと立ち上がると、完璧なまでの聖女の微笑みを船長に向けた。
◇◆◇
ぎしり、と古い木材が軋む甲板に、重い沈黙が垂れ込めていた。
聞き取りのために集められた船員たちとの対峙は、予想通り膠着している。
潮風に焼かれた肌、ごわごわと硬くなった髪。
彼らは揃いも揃って、港に立つ石像のように固く口を閉ざしていた。太い腕を組み、探るような、あるいは侮蔑すら滲む視線が、場違いなほどに着飾った我々へと突き刺さる。どんな問いを投げかけても、返ってくるのは風に溶けるような曖昧な言葉だけだ。
「さあ……? そんなお嬢さんのことなど、存じませんな」
「俺たちはただ、言われた通りに船を動かしているだけなんで」
その白々しい態度と、鉄の結束。
痺れを切らしたライナーが、こめかみに青筋を浮かせて一歩踏み出そうとした、その時。
すっ、と伸びたマリアの白い手が、彼の腕を掴んで制した。
マリアは静かに一歩前へ進み出る。
そして、完璧な聖女の微笑みを唇に浮かべ、船員たちに語りかけた。その声は、荒々しい海の上のすべてを浄化するかのように、清らかに響き渡る。
「――皆様。ご心配には及びません」
唐突な言葉に、頑なだった彼らの貌に、さざ波のような動揺が広がった。
「私たちは、あなた方を責めるためにここへ来たのではありません。……デニウス殿から依頼を受けて来たわけでも、ありませんから」
「!」
デニウスの名が出た瞬間、空気が凍った。
数人の男の肩が、見えない鞭で打たれたかのように跳ねるのを、マリアの瞳は見逃さなかった。
(……やはり。そういうことね)
マリアは続ける。その声に、より一層の慈しみを込めて。
「私たちは、ただ、『小さなお嬢さん』の安否を案じているだけ。もし彼女が、無事にこの船を降りられたのであれば、それは我々にとっても喜ばしいことです」
彼女はそこで一度言葉を切り、慈愛に満ちた聖女の仮面を一枚剥がした。その下に現れたのは、ただ一人の少女を案じる、真摯な光を宿した瞳だった。
「……我々は、あの子の敵ではありません。必ず、あの子の助けになります。どうか、それを信じてください」
だが、船員たちは動かない。
互いに視線を交わし、喉の奥で何かを決めかねている。あまりにも話がうますぎる。目の前の女が、自分たちの口を割らせるために甘い罠を仕掛けているだけではないのか。疑念の霧は、まだ晴れない。
その時、ライナーの視線が、一人の若い船員を射抜いた。先ほどから、マリアの言葉に微かな反応を見せていた男だ。ライナーは獣のように鋭く踏み込み、男――ルドルフの眼前に詰め寄る。
「お前、何か知っているな」
ルドルフは、びくりと後ずさりながらも、頑なに首を横に振った。
その瞳の奥に、「俺は騙されない」という、青い炎のような警戒の色を宿して。
◇◆◇
結局、検閲は何の成果もなく終わった。
帝国の高速艇へと戻るタラップの上で、セラが唇を噛む。
「……ダメでしたわね。船員たちは明らかに何かを隠しているようでしたが……」
「……ええ」
マリアは静かに頷いた。
(あの子、ただ逃げただけではない。おそらく、この荒くれ者たちを完全に手懐けているわ)
(だとしたら、今はこの聖王都のどこかで息を潜めているはず。それも、かなり巧妙に)
(下手に派手な捜索をすれば、かえって彼女を危険に晒すかもしれない。それに、デニウスもまだこの街にいるはず……)
マリアは、決断した。
自室に戻るなり、彼女はセラとライナーに告げた。
「――大々的な捜索は、一度中断します」
「なっ……!?」
驚く二人を、マリアは静かな、しかし力強い目で見据える。
「リナを信じましょう。あの子なら、自力で活路を見出しているはず。私たちが今すべきことは、『私たちがここにいる』という事実を、彼女に知らせることだけ」
「……どうやって……?」
ライナーが訝しげに問う。
マリアは、窓の外に広がる聖王都の街並みを見やり、不敵な笑みを浮かべた。
「噂を流すのよ」
「『アルカディア王国の聖女マリアが、行方不明の愛しい妹分を探し、この聖王都を訪れている』、とね。大々的にやる必要はないわ。あの子なら…リナなら、その僅かな情報の糸を必ず手繰り寄せる。あの短期間で船員を手懐けた子よ。この街に独自の根を張っていたとしても、何ら不思議はないわ」
それは、リナへの絶対の信頼に基づいた、静かで、しかし確実な一手だった。
マリアは、見えない糸を街に張り巡らせ、賢しい妹分がその糸を引くのを、静かに待つことにしたのだ。