第155話:『酒場の聞き耳と、二つの国の影』
サンタ・ルチアの魚市場に、陽光と潮風が満ちる。
石畳を洗う海水、威勢のいい男たちの怒鳴り声、そして鼻をつく魚の匂い。
この街にとどまっていたバルドルの一行も、この島に数日滞在した後、王国の方に向かう船に乗り込んでいったと聞く。巨躯の彼らの動向は、このあまり大きくない港では手に取るように分かった。
ソフィア姐さんをはじめ、市場の荒くれ者たちは皆、口は悪いが私にはとても優しかった。
だが、その温かな日常に安らぎを感じながらも、私の頭は片時も思考を止めてはいない。
(……情報を得なければ。デニウスが何者で、アルビオンが何を企んでいるのか。そして、セラさんたちとどうすれば連絡が取れるのか……)
青くどこまでも広がる海を眺めるたび、焦燥が胸を焼く。
私は決意した。自ら虎の穴へ飛び込むことを。
その日の昼食後、私はソフィア姐さんの仕事場へと向かった。
銀色の鱗を飛び散らせながら、巨大なマグロがまな板の上で解体されていく。その力強い腕を振るう姐さんに、私は意を決して声をかけた。
「――姐さん。私、もっと働いてお金を稼ぎたいんです」
ぴたり、と血振るいされた包丁が止まる。
「……はあ?」
私の唐突な申し出に、彼女は汗の滲む額を腕で拭い、怪訝な色を瞳に浮かべた。
「夜、酒場で働かせてはもらえませんか?」
「馬鹿お言い!」
雷鳴のような一喝が飛ぶ。
「あんな酔っ払いの巣窟に、お前みたいな子供を行かせられるわけないだろう! 海にでも売り飛ばされたいのかい!?」
だが、私は怯まなかった。一歩踏み込み、彼女の目をまっすぐに見つめ返す。
「大丈夫です。私は計算もできるし、字も読めます。……それに」
声を潜め、切り札を切った。
「……色々な国の言葉が、少しだけ分かります。きっと、お店の役にも立ちますから」
その言葉と、何よりも私の子供らしからぬ真剣な眼差しに、ソフィア姐さんは虚を突かれたようだった。私の瞳の奥に、故郷へ帰ろうと必死にもがく小さな魂の姿を見たのかもしれない。やがて、天を仰いで深いため息をついた。
「……はぁ……。分かったよ。分かったから、そんな目で見るんじゃない。……ただし! 何かあったら、腹の底から大声を出すんだよ! 市場の連中が、一秒で店ごとひっくり返しに行くからね!」
◇◆◇
こうして私が働くことになったのは、港で最も雑多な人間が集まるという酒場『海猫の止まり木』だった。
重い木の扉を開けると、潮とエール、そして様々な人種の男たちが発する汗と熱気が、むわりと頬を撫でた。揺れるランプの灯りが、傷だらけのテーブルや荒くれた顔をまだらに照らし出している。
私は小さなエプロンをきつく締め、さながら地元の子供のような格好に身を包んで、その戦場へと飛び込んだ。
注文を取り、湯気の立つ料理を運び、空いた重いジョッキを下げる。
最初は、その小さな姿にちょっかいを出してくる無骨な船乗りもいた。だが、ソフィアの「この子に指一本でも触れてみろ。明日の朝には魚の餌にしてやる」という、地獄の底から響くような一言が事前に店中へ通達されていた。今では誰もが私を、「市場の姐さんの宝物」として、丁重に、そしてどこか恐る恐る扱うようになっていた。
夜が更け、酒が回る頃。
店は様々な言語が飛び交う、情報の坩堝と化す。
そして、私の持つ『多言語理解』の能力が、その真価を発揮し始めた。
私はただ注文を取り、テーブルを拭いているだけではない。この喧騒の中で交わされる全ての会話を、一言一句違わず完璧に理解していたのだ。
聖王国から来た船員たちの愚痴。
「(……聖王都も近頃は物騒でいけねえ。海の向こうの『アルビオン』の連中が、やけにうろつきやがる……)」
「(ああ。何やらきな臭い荷を、アルカディア王国の方へ運んでるなんて噂も立つくらいだからな……)」
ヴェネツィアの商人たちの密談。
「(……帝国と王国が手打ちになったらしい。これからは、あの『天翼の軍師』とどう付き合うかが鍵になるぞ。マルコの奴はうまく取り入ったようだが……)」
全ての声が、意味を持って私の耳に流れ込んでくる。
そんな中、私はカウンターの隅でひときわ羽振り良く酒を飲む数人の男たちに、意識を集中させた。
彼らの言葉は、これまで聞いたこともない独特の訛りを持つ。アルビオン連合王国の言語だ。
まさかこんな辺境の港町で、自分たちの言葉を完全に理解する給仕の子供がいるとは夢にも思うまい。彼らは油断しきった声で、重要な情報を漏らしていた。
「――しかし、調査団は今回しくじったらしいな。国王陛下を治癒できる『聖者』を、ようやく手に入れられるはずだったらしいんだが」
「ああ、聞いたぜ。聖王都で逃げられたんだと? 今、血眼になって探してるそうだ」
「……まったく、人騒がせな『聖者様』だ。まあ、俺たちにゃ関係ねえ。俺たちは、俺たちの『荷』を予定通りに王国の近くの拠点まで運ぶだけだ」
(……!)
心臓が氷水に浸されたように冷たくなる。
私は平静を装い、彼らのテーブルから空いたジョッキを下げながら、その情報を脳に刻み付けた。
デニウスの目的は、やはり癒やしの力を持つ者。
彼は私が聖王都に逃げ込んだと勘違いし、今そちらを捜索している。船員の皆が上手くやってくれたのだろう。感謝しかない。
そして、アルビオンと聖王国は、思った以上に深い繋がりがある。アルビオンはきな臭い「荷物」を、アルカディア王国へ……。そうだ、バルドルたちも王国の方へと向かったらしい。全てが、繋がる。
冷たくなった椅子やテーブルを雑巾で拭きながら、私は次の手を必死に巡らせていた。
まず、この情報を仲間たちに伝えなければ。
だけど、どうやって?
この、海に閉ざされた孤島から。