第154話:『路地裏のニアミスと、市場の温もり』
サンタ・ルチアの魚市場は、リナにとって驚くほどに穏やかだった。
潮の香りと活気が満ちるこの場所で、ソフィア姐さんをはじめ、日に焼けた腕に傷跡を刻む市場の荒くれ者たちは皆、私をまるで壊れやすい硝子細工でも扱うかのように、不器用な優しさで包んでくれた。
その日、私はソフィア姐さんから初めての使いを頼まれた。
「リナ。すまないが、市場の向こう側にあるパン屋まで、これを届けてきてくれないかい?」
差し出された包みは、まだ温かい。それは私を信頼してくれている証のようで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「はい! 喜んで!」
姐さんは大きな手で私の頭をわしわしと撫でると、近くの店の主人たちに向かって腹の底から声を張り上げた。
「おい、お前ら! うちのチビが初めて使いに行くんだ! ……もし何かあったら、どうなるか分かってるだろうな!」
その言葉に、魚を捌いていた手が止まり、網を繕っていた屈強な男たちがニヤリと笑う。
「へいへい、姐御!」「任せとけって!」
あちこちから飛んでくる野太い声援と悪戯っぽい笑顔。少し気恥ずかしくて頬が熱くなるが、その温かい空気に胸がいっぱいになった。
パン屋への道のりは、市場で一番賑やかな通りを抜けていく。
露店に山と積まれた色とりどりの果物。鼻をくすぐる香ばしいスパイスの香り。肩がぶつかり合うほど行き交う人々の、生命力に満ちた活気。私はしばし軍師の顔を忘れ、ただの少女としてその喧騒に心を躍らせていた。
――その時だった。
ふと、背筋を刺すような強烈な圧を感じた。ぞくりと悪寒が走り、振り返る。
雑踏の向こう、人波をかき分けるように進んでくる、見間違えるはずもない岩のような巨躯。
狂戦士、バルドル。
忌々しげに舌打ちをしながら、彼は真っ直ぐこちらへ向かってくる。まだ、私には気づいていない。
それでも、全身の血がさっと引いていくのが分かった。
(……まずい……!)
咄嗟に近くの露店の陰へ身を隠そうとした、その刹那。
だが、相手もまた修羅場をくぐり抜けてきた男だった。私の僅かな動きの揺らぎを、その獣のような視線が見逃すはずもない。
「……ん?」
彼の目が、獲物を定めるように訝しげに細められる。
「……どこかで見たようなガキだな……?」
ゆっくりと、こちらへ進路が変わる。一歩、また一歩と、死神の足音が近づいてくる。喉の奥で悲鳴が凍りつき、心臓が肋骨を叩く音だけがやけに大きく響いた。
「――へい、らっしゃい! お兄さん、威勢がいいねぇ! 新鮮な魚はどうだい!」
絶体絶命の瞬間、ぬっとバルドルの前に立ちはだかったのは、威勢のいい魚屋の主人だった。銀色に光る魚を掲げ、その巨躯をものともせずに道を塞ぐ。
「どけ」
地を這うような声にも、主人は怯まない。
「まあまあ、そう言わずに! 見ていきなよ! 今朝揚がったばかりの極上のマグロだぜ!」
その強引な客引きにバルドルの注意が逸れた、ほんの一瞬。
通りの向かい側、服屋の軒先で布を広げていた恰幅のいいおかみさんが、必死の形相で私に手招きをしているのが見えた。
私は弾かれたように駆け出した。店の奥へ転がり込むように飛び込む。
「……はぁっ……はぁ……」
「……しーっ」
おかみさんは私の口を優しい手で塞ぐと、店の奥へと引き入れてくれた。私たちは布の山の陰から息を殺して外の様子を窺う。
バルドルは魚屋の主人を振り払い、忌々しげに辺りを見回していたが、やがて諦めたように舌打ちを一つして、雑踏の中へと消えていった。
危険が去った後、私はその場にへなへなと座り込んでしまった。
「……ありがとう、ございます……。助かりました……」
「……まったく、肝が冷えたよ」
おかみさんは大きなため息をつくと、私の姿を上から下までじろじろと検分した。その目に、心配の色が浮かぶ。
「あんた……そんな格好じゃ、目立ってしょうがないじゃないか。……ちょっと、こっちへおいで」
腕を引かれ、店の奥の試着室へとずるずると連れていかれる。彼女はいくつかの服を私に当てがいながら、ぶつぶつと呟いた。
「……肌は白いし、育ちも良さそうだ。……だが、これならどうだい」
彼女が選んだのは、この港町の子供たちが着ているような、日に焼けて少し色褪せた青いワンピースと、使い古された麦わら帽子だった。
「ほれ、着てみな」
言われるがままに着替えると、おかみさんは私の姿を見て満足げに頷いた。そして、麦わら帽子を深く被せられると、私の顔は完全に影の中に落ちる。これならもう、誰にも気づかれまい。
「……よし。……あれまあ……」
おかみさんは私の頭を撫でようと手を伸ばしかけ、次の瞬間、その大きな体で私をがばっと抱きしめた。
「――話は聞いてるよ! 大変だったねぇ……!」
胸が苦しくなるほどの力で、ぎゅーっと抱きしめられる。
「……頑張るんだよ! これ全部持っていきな! 金なんていらないからね!」
「あ、いえ! お返しできるあてもないので……!」
「なーに遠慮してるんだい! ありがと、って言っときゃいいのさ!」
そのぶっきらぼうで、けれど太陽のように温かい言葉に、胸の奥がじんと熱くなった。
◇◆◇
事務所に戻ると、ソフィア姐さんは腕を組んで私を待っていた。市場の噂は、風よりも速いらしい。
「……悪かったねぇ。まさか、あのアルビオンのでくの坊たちが、まだうろついていたとはね」
彼女は私の新しい姿を一瞥すると、わっはっは、と豪快に笑い飛ばした。
「まあ、その格好ならもう分からんだろう。それに、あのでかいのももうすぐ王国の方へ行くらしいから、しばらくは大人しくしておきな」
「……はい」
「……何にせよ、無事で良かったよ、本当に」
安堵の滲む声に、私はこくりと頷いた。
この港町は危険と隣り合わせだ。だが、それ以上にどこよりも温かい。
この太陽のような優しさに報いるためにも、私は絶対に生き延びなければならない。
そして、必ず仲間たちの元へ帰るのだ。
手にした麦わら帽子の縁をぎゅっと握りしめ、私は改めて心に誓った。




