第15話:『英雄伝説と厨房の少女』
『剣聖』を泥まみれにして撃退した、という第二の奇跡。
その報は、東部戦線の帝国軍駐屯地を、もはや熱狂という言葉では生ぬるいほどの、一種の狂乱状態に叩き込んだ。
「聞いたか!? 軍師殿が、またやったらしいぞ!」
「ああ! あの『剣聖』を、一兵も損なうことなく、泥だらけにして追い返したんだと!」
「俺は見たぞ! 遠くからだったがな! 英雄様が泥の中でもがく様を、吟遊詩人が歌でコケにしてたんだ! 空前絶後の光景だったぜ!」
兵士たちの間で語られる「謎の軍師」の伝説は、もはや神格化の域に達していた。
あの豪華絢爛な、悪趣味としか思えなかった輿は、今や兵士たちから「賢者の御座」「勝利の玉座」などと呼ばれ、畏敬の対象となっていた。私が時々、その赤い帳の隙間から外を覗こうものなら、目が合った兵士は「おおっ!」と感激したように固まり、その場で敬礼する始末だ。
(やめて! そんな有り難いものを見るような目で見ないで! ただ、外の天気が気になっただけだから!)
私の内心の叫びは、もちろん誰にも届かない。
そんな狂騒の真っ只中にありながら、私の日常は、驚くほど平穏だった。
「軍師」としての仕事――つまり、作戦会議や敵情分析の時以外、私はあの重苦しいローブと変声器を外し、ただの「特務書記官リナ」として過ごしている。
私の正体を知っているのは、グレイグとセラ、そしてごく一部の側近だけ。他の兵士たちにとって、私は「司令官閣下が特別に目をかけている、ちょっと賢い孤児の少女」でしかない。
「リナちゃん、今日の昼飯はなんだい?」
「あ、リナ書記官! この報告書のまとめ方、少し教えてくれないか?」
「リナ、これ、故郷から送られてきた干し果物だ。お食べ」
昼間の私は、ちょこちょこと天幕の間を走り回り、書類を整理したり、厨房で兵士たちの食事作りを手伝ったりしている。
兵士たちは、まさか目の前で味見用のシチューを「ふーふー」しながら食べているこの小さな少女が、あの神のごとき智謀を持つ「謎の軍師殿」と同一人物であるなど、夢にも思っていない。
このギャップが、私の唯一の心の安らぎだった。
「んー、今日のシチューは、少し味が薄いですね。岩塩をもうひとつまみと、隠し味にこの“月桂樹”の葉を一枚……よし、完璧です!」
私が厨房で大きな木べらを振り回していると、兵士たちは「ははは、リナちゃんは本当に料理上手だな」「未来の良いお嫁さんになるぞ」なんて、のんきなことを言っている。
(ふっふっふ。あなたたちが今食べているこのシチューのレシピを考案したのも、敵の剣聖を泥に沈める作戦を立てたのも、この私なんですよ……)
そんな優越感に浸りながら、こっそりほくそ笑むのが、最近の私の密かな楽しみになっていた。
そんなある日。
グレイグの執務天幕に、私とセラ副官が呼び出された。
「帝都から、正式な通達が来た」
グレイグは、皇帝の印璽が押された羊皮紙を広げ、重々しく言った。
「此度の二度に渡る大功を鑑み、『謎の軍師』殿に、正式な爵位と、莫大な報奨金を与える、と」
「……爵位、ですか?」
セラ副官が、驚きの声を上げる。
「ああ。『男爵』位だそうだ。平民どころか、孤児からの成り上がりとしては、前代未聞の大出世だな」
その言葉に、私は手に持っていた書類の束を危うく落としそうになった。
(だ、男爵!? 私が!? 冗談でしょ!?)
貴族になるなんて、考えたこともなかった。孤児院のみんなにお菓子を送る、というささやかな夢が、とんでもないスケールで叶おうとしている。
だが、問題はそこではなかった。
「……リナよ」
グレイグが、私の目を見て言った。
「お前を、いつまでも『謎の軍師』として隠しておくわけにはいかない。いずれ、その正体を公にする時が来る。敵も、血眼になってお前の正体を探っている頃だろう」
彼の言葉に、セラ副官も頷く。
「はい。このままでは、リナの身が危険です。帝都にいる方が、安全かもしれません」
「……いや」
グレイグは、首を横に振った。
「こいつを帝都に送れば、それこそ恰好の的だ。貴族どもの嫉妬や、敵の暗殺者に、いつ狙われるか分かったもんじゃない。……こいつを一番安全に守れる場所は、皮肉にも、俺の目の届くこの最前線だけだ」
そして、彼は私に向き直り、悪戯っぽく笑った。
「というわけで、男爵様。引き続き、このクソッタレの戦場で、俺の頭脳として働いてもらうぞ。……ああ、そうだ。お前の身の回りの世話役として、護衛を兼ねた侍女でもつけてやるか? 帝都に申請すれば、すぐに送ってくるだろう」
「け、結構です!」
私は思わず叫んだ。
「侍女なんていりません! それに、私はまだ、ただの書記官です!」
(これ以上、目立ちたくない! これ以上、面倒事が増えるのはごめんだ!)
私の必死の抵抗に、グレイグは腹を抱えて笑い、セラは呆れたように、しかし優しく微笑んだ。
東部戦線では、今日も「謎の軍師」の英雄伝説が語り継がれている。
その伝説の張本人が、今、自分の天幕で「男爵になったら、お給料はいくらになるんだろう……」なんて、金の計算をしていることなど、誰も知らない。
平穏と狂騒が入り混じった、奇妙な日々は、まだしばらく続きそうだった。




