第150話:『路地裏の小さな騎士』
― 陽炎の向こうに揺れる、始まりと終わりの街 ―
陽の光も届かぬアクア・ポリスの裏路地。
魚のはらわたの腐臭と、湿った潮風が混じり合うその場所は、子供が生きるには過酷な場所だった。
だが、十歳にも満たない少女ヴォルフラムは、その瓦礫と汚泥の中で誰よりも気高く、そして強かった。
痩せた腕で握りしめた木の棒。それが、彼女と妹分のイリアを守る唯一の盾であり、剣だった。
「――こっちへ来るな! イリアには指一本触れさせないぞ!」
その日も、ヴォルフラムは自分より二回りは大きなチンピラたちを相手に、たった一人で対峙していた。自らを、そしてイリアを護るために。
数の上では圧倒的に不利。だが、その双眸に恐怖の色はない。
その光景を横目に、酒場からの帰り道、ふらりと通りかかった男がいた。
帝国南部方面軍司令官、“海竜”オルランド・デ・ロッシ中将。
その日の彼は、上質な酒でひどく上機嫌であり、そして、ひどく酔っ払っていた。
「――おぉ? なんだなんだ。昼間から威勢のいいお嬢ちゃんじゃないか」
赤らんだ顔に人の好い笑みを浮かべ、千鳥足で喧嘩の輪に近づいていく。
彼が助太刀に入ろうとする、まさにその刹那だった。
ヒュッ、と風を切る音。
ヴォルフラムの木の棒がしなり、チンピラの一人の顎を的確に打ち抜いた。鈍い音が響き、巨体が崩れ落ちる。間髪入れず、しなやかな回し蹴りがもう一人の鳩尾に突き刺さった。
「ぐっ……!」
くぐもった呻きを上げて男が膝をつく。
残った最後の一人は、息を荒げながらもなお殺意を失わない少女の鬼のような形相に完全に気圧され、みっともない悲鳴を上げて路地の奥へと消えていった。
わずか数十秒の圧勝劇だった。
「……はっはっは! 見事、見事! いや、たいした腕前だ!」
ロッシは、手を叩いて賞賛した。
その朗々とした声に、ヴォルフラムがハッと振り返る。そして、酒臭く立派な身なりをしたその男を、チンピラたちの元締めだと完全に勘違いした。
「……あんたがこいつらの親玉か! 仲間をやられて黙って見てるなんて、いい度胸じゃないか!」
「……は? いや、わしはただの通りすがりの……」
「問答無用! 」
ヴォルフラムは木の棒を構え直し、獣のように低い姿勢でロッシに詰め寄る。
その後ろでイリアが「違うよ、ヴォルちゃん……!」と涙声で袖を引いているが、高鳴る心臓の音に掻き消され、興奮したヴォルフラムの耳には届かない。
ロッシは、その勘違いっぷりと子供離れした気迫に、優しく、微笑ましい者をみる目をして、ただ笑顔だった。
◇◆◇
翌朝。
昨夜の酒をすっかり抜いたロッシは、改めて二人の孤児を探し出した。
そして軍の活気ある食堂で、湯気の立つ温かいスープを腹いっぱいご馳走してやりながら、真剣な眼差しでヴォルフラムに問いかけた。
「――お嬢ちゃん。軍に興味はないかい? 君ほどの才能があれば、必ずや立派な軍人になれる。そうすればもう、こんな裏路地で怯えて暮らす必要もなくなるぞ」
だが、ヴォルフラムはスープの皿から顔も上げず、スプーンを動かす手を止めもしないまま、きっぱりと断った。
「興味ない」
「……なぜだ?」
「私は、この子を守る。それだけだ」
彼女の視線は、隣で小さな口いっぱいにパンを頬張るイリアに注がれていた。
その瞳は、どこまでも優しく、そして鋼のように頑固な光を宿していた。
ロッシは深い溜息を一つ吐いたが、諦めはしなかった。
その日から、彼は二人の孤児の後見人のように、足繁く路地裏に通うようになった。
時折様子を見に来ては市場の屋台で食事を振る舞い、汚れた服の代わりに新しい、少しぶかぶかの服を買い与えた。
ヴォルフラムは最初こそ刃物のように彼を警戒していたが、その不器用な優しさに、凍てついた心を次第に溶かしていく。イリアもまた、海の男の豪快な笑い声が大好きになっていた。
束の間の、陽だまりのような日々。
三人の間には、まるで本物の親子のような温かい絆が芽生え始めていた。
だが、その陽だまりの裏側で、一つの影が静かに、そして確実に広がりつつあった。イリアが持つ不思議な癒やしの力の噂が、水面下でじわじわと裏社会の耳に届き始めていることに、まだ気づいていない。