第149話:『南への道と、潮の香り』
― 新たな誓いを胸に、運命の歯車は回りだす ―
帝都の喧騒が、嘘のように背後へ遠ざかっていく。
硬い石畳の道はいつしか乾いた土の街道へと姿を変え、ヴォルフラムが駆る漆黒の軍馬の蹄音だけが、虚ろな静寂を打ち破るように響いていた。
彼女はただ、ひたすらに南を目指していた。
宰相執務室の重苦しい空気と、冷たく突き刺さった残酷な現実。
『――軍師殿は、海の上』
その一言が、蹄の音に重なって頭蓋の内で反響し続けている。
リナ様が、攫われた。
己が、不在の間に。
北の大地で血の滲む鍛錬を重ね、あの人の隣に立つ資格を得るはずだった。それなのに、またしても自分は守るべき光を見失ったというのか。
(……いいや)
唇から漏れかけた呻きを、奥歯を強く噛み締めることで飲み込む。手綱を握る指が、その決意に呼応するように白く、硬く、力を帯びていく。
(……まだだ。まだ終わってはいない。……同じ過ちは繰り返させない!)
その双眸から涙はとうに枯れ果て、絶望の翳りすら見えない。宿るのはただ、リナを奪還し、敵を殲滅するという、絶対零度の炎。その凍てついた炎だけを道標に。ただひたすらに馬を駆り続ける。
◇◆◇
幾日幾夜、走り続けたろうか。
厳しく乾いた風はなりを潜め、南の暖かく湿った空気が、火照った彼女の頬を優しく撫で始めた。そして、ふと気づく。風に混じる、微かで、しかし決して忘れることのない香り。
――潮の香り。
その懐かしい匂いが、引き金だった。
心の奥底に十年以上も固く封じ込められていた記憶の蓋が、軋む音を立ててこじ開けられる。
(……ああ……この、匂い……)
(……あの頃と、同じ……)
馬上で揺れる視界が陽炎のように歪む。目の前の街道が遠い過去の光景と溶け合っていく。
◇◆◇
――十余年前、アクア・ポリス。
後の軍港都市などという華やかな名はまだなく、そこが港町だった頃。
淀んだ潮の匂いが壁の染みのようにこびりついた裏路地。降り続く霧雨が石畳を黒く濡らし、足元からじっとりとした冷気が這い上がってくる。
その薄暗がりの奥で、一つの小さな咆哮が上がった。
「こっちへ来るなッ! イリアには指一本触れさせないぞ!」
掠れた声で叫ぶのは、まだ十歳にも満たない少女、ヴォルフラム。
自分より頭二つは大きなごろつき共を睨みつけ、拾った木の棒を、震える腕でただ無我夢中に振り回していた。
その背中には、小さな影が寄り添うように隠れている。怯えた瞳で、姉の服の裾を血の気の失せた指でぎゅっと握りしめているのは、妹分のイリア。
いつもそうだ。ヴォルフラムが喧嘩でこさえた擦り傷に、イリアがそっと手を触れると、不思議と痛みが和らぎ、傷は見る間に癒えていった。
ヴォルフラムは、イリアの騎士だった。
か弱いこの子を守ること。
それが彼女の世界のすべてであり、生きる理由そのものだった。
(……そうだ……あの頃、私は……)
ヴォルフラムの意識が、過去と現在を激しく行き来する。遠のいていく蹄の音。代わりに耳に届くのは、寄せては返す波の音。
ふと顔を上げると、目の前にはどこまでも広がる紺碧の海が広がっていた。
そして、その海の向こう。陽光を浴びて白く輝く街並みが、蜃気楼のように揺らめいている。
彼女のすべてが始まり、そして、すべてを失った街、『アクア・ポリス』が――。