第14話:『泥中の英雄と王宮の嘲笑』-
帝国軍の嘲笑が遠ざかり、森に静寂が戻ってきた。
風が木々の葉を揺らす音だけが聞こえる。先ほどまで陽気に鳴り響いていたリュートの音色は、悪夢の残響のように耳の奥にこびりついていた。
「……ハヤト様」
恐る恐る、といった声音で近づいてきたのは『聖女』マリアだった。純白のドレスの裾を汚さぬよう、慎重に足場を選んでいる。彼女の背後では、護衛の騎士たちが信じがたいものを見る目で立ち尽くし、泥濘に沈む英雄を遠巻きに眺めていた。
「……来るな」
泥の中から、獣が唸るような低い声が漏れた。
ハヤトは顔を上げない。ただ、泥にまみれた拳を固く握りしめている。
「俺を見るなッ!!」
その叫びは怒りよりも、はるかに深い屈辱に震えていた。
最強の剣聖たる自分が、剣を抜くことさえできず、無様に嬲られる。その醜態を、最も見られたくない人の一人に見られてしまった。硝子のように砕けたプライドが、泥水の中に溶けていくようだった。
マリアは、困ったように柳眉を寄せた。
彼女の聖なる力ならば、この粘つく罠を浄化できるかもしれない。だが、下手に近づけば自分まで囚われかねない。そして何より、今のハヤトは手を差し伸べれば噛みついてきそうな、手負いの獣そのものだ。
「……仕方ありませんわね」
ふ、と漏れたため息は氷のように冷たい。彼女は振り返り、護衛騎士たちに命じた。
「あなたたち、何とかしてハヤト様をそこから引きずり出しなさい。斧で地面ごと切り出すなり、馬で力任せに引くなり、手段は問いませんわ」
そして、氷の視線で騎士たちを射貫き、静かに付け加える。
「……ああ、それと。このことは他言無用。もし今日の出来事が私の耳以外のところから聞こえてきたら……どうなるか、お分かりですわね?」
騎士たちは青ざめた顔で、声もなく頷いた。
◇◆◇
陽が落ち、数時間に及ぶ格闘の末、ハヤトはようやく泥地獄から解放された。
だが、代償は大きかった。愛用の鎧は泥と鳥もちで見るも無惨に汚れ、無理に剥がされた際の傷が痛々しく刻まれている。しかし、それ以上に彼の心には、決して癒えることのない深い亀裂が走っていた。
自陣に戻ったハヤトは誰とも口を利かず、己の天幕に閉じこもった。
ランプの頼りない光が、壁に掛けた予備の剣を鈍く照らす。彼は震える手でその柄を握りしめた。
(……軍師……帝国軍の、あの忌々しい軍師め……!)
ギリ、と奥歯が軋む音が天幕に響く。
瞼を閉じれば、あの光景が焼き付いて離れない。敵兵の侮蔑の視線、ふざけた吟遊詩人の歌、そして赤い帳の奥から響いた、低く落ち着き払った声。自分を虫けらのように見下しきった、あの声。
(許さない。絶対に許さない。次に会った時は、策も罠も関係ない。あの輿ごと、八つ裂きにしてくれる……!)
憎悪が、砕かれた心の隙間を埋めていく。それはもはや国を守る英雄の感情ではなかった。ただひたすらに、個人的な復讐心に燃える男の執念だった。
◇◆◇
その頃、アルカディア王国の王都は、東部戦線からもたらされた凶報に揺れていた。
「――『剣聖』ハヤト様、敵の罠に嵌り、交戦なくして撤退! 部隊の死傷者は皆無。されど……」
玉座の間で報告する伝令は、そこで言葉を濁した。
「されど、何だ! はっきり申せ!」
宰相がいらだたしげに怒鳴る。
「はっ……! 剣聖様の、その……ご尊厳が、著しく損なわれた、とのことにございます……」
その報告は、王宮内を黒い噂となって駆け巡った。
とりわけ、先の祝勝会で転生者たちに手柄を独占され、苦々しい思いをしていた古参の将軍たちは、ほくそ笑んだ。夜ごと開かれる軍高官のサロンでは、ワイングラスを片手に粘ついた囁きが交わされる。
「聞いたか? 例の“英雄様”が泥遊びに興じ、尻尾を巻いて逃げ帰ったらしいぞ」
「はっはっは、ざまあない。我らを無能呼ばわりしていたが、策の一つも見抜けぬただの猪武者だったわけだ」
「だから言ったのだ。戦は力だけでするものではないと。英雄殿も、これで少しは我らの苦労が分かったであろう」
あからさまな嘲笑と、歪んだ安堵が部屋に満ちていた。
王の執務室。宰相は苛立ちを隠そうともせず、分厚い絨毯の上を行き来しながら国王に詰め寄っていた。
「陛下! このままでは剣聖様の威信は地に落ち、軍の士気は瓦解しますぞ! 何より、先の祝勝会で面目を潰された将軍や貴族たちが、ここぞとばかりに騒ぎ立てております! 帝国の『謎の軍師』……早急に手を打たねば、国が内から崩れます!」
玉座に深く身を沈めた国王は、その剣幕に気圧され、ただ眉間に皺を寄せることしかできない。
脳裏をよぎるのは、祝勝会でのハヤトとマリアの尊大な態度。自分たちがいなければ、この国は何もできぬと言わんばかりのあの傲慢さ。
(……少しは、思い知ったか)
そんな黒い感情が胸をかすめるが、すぐに無力感の波に呑み込まれていく。たとえ彼らが失脚したところで、この国の実権が、目の前の宰相や彼が代弁する貴族たちから自分の手に戻るわけではないのだ。
「……では、どうしろと申すのだ、宰相」
か細い声での問いに、宰相は待ってましたとばかりに顔を上げた。
「決まっております! 諜報部を総動員し、帝国の『謎の軍師』の正体を白日の下に晒すのです! 陛下、ご英断を!」
宰相の強い視線に射抜かれ、国王は観念したように、小さく息を吐いた。
「……わかった。そなたの言う通りにしよう」
彼は疲れたように目を伏せ、ほとんど囁くように命じる。
「諜報部に……伝えよ。あらゆる手段を使い、帝国の軍師の正体を探れ、と。……奴は、何者なのか。男か、女か……どんな些細な情報でもいい。全て、かき集めるのだ……」
その声は、宰相の耳に届いているのかさえ、定かではなかった。