第142話:『船底で芽吹くもの』
船が軋む音は、まるで巨大な獣の呻き声のようだった。
デニウスはリナの部屋を後にし、艦橋へと続く長い廊下を一人歩いていた。脳裏に焼き付いて離れない。氷のように冷たい声、軽蔑を映したあの瞳。
『……あなたの顔は見たくない』
少女の拒絶が、鋭い棘となって胸の奥に突き刺さる。
(これで良かったのだ)
必死に自分へ言い聞かせる。故郷に居るあの娘を救うためだ。多少の犠牲は仕方のないことだと。だが、一度芽生えた罪悪感は、冷たい潮のようにじわじわと心を蝕んでいく。
艦橋に戻っても、船長の報告はどこか遠くに聞こえた。これから毎日、あのリナと言う子と顔を合わせねばならない。その事実が、鉛のように心を重くする。
(……いや、今はまだその時ではない)
自らの弱さから逃げるように、言い訳を組み立て始める。
(聖王都に着く頃には、あの娘の気持ちも落ち着いているだろう。そこで誠意を尽くして話せば、きっと……)
デニウスは部下を呼びつけ、努めて冷静な声で命じた。
「――リナ様のお世話は、これまで通り船員たちに任せる。食事、身の回りのこと、全てだ。何か問題があればすぐに報告しろ」
それは賓客への配慮を装った、紛れもない逃避だった。
リナと向き合うことから逃げたその小さな先延ばしが、やがて少女に貴重な「時間」と「自由」を与えることになるとは、彼はまだ知る由もない。
デニウスは一人、艦橋の窓から暗い海を見つめ、己の罪悪感から目を逸らすように故郷の少女だけを想った。
◇◆◇
私の戦いは、無愛想な船員たちが運んでくる冷めた食事と共に始まった。
彼らの目は疲れと不満で濁り、交わす言葉には故郷を追われた者の棘がある。デニウスが占領地から半ば強制的に連れてきた者たちなのだろう。異国の小さな少女に自分たちの言葉が通じるはずもないと、彼らは故郷の言葉で遠慮なく不満をぶちまけた。
『ちくしょう、いつまでこんな海の上なんだ』
『故郷の妻は、元気にしているだろうか……』
だが、私の能力『多言語理解』は、その粗野な響きの奥にある彼らの心の声を拾い上げる。故郷への想い、家族への愛情、先の見えない海上生活への苛立ち。
ある日、食事を運んできた若い船員――まだ少年と呼んでいい歳頃の彼に、私は声をかけた。彼はいつも「妹の病気、良くなったかな」と、誰に聞かせるでもなく呟いていた。
「……あの」
床に置かれた盆を受け取りながら、私は意を決して顔を上げる。そして、彼の故郷の言葉で、小さく、けれどはっきりと問いかけた。
「あなたの故郷の言葉で、話してもいいですか?」
「!?」
少年は息を呑み、持っていた盆を取り落としそうになる。その目は「なぜ」と雄弁に問いかけ、まるで幽霊でも見たかのように大きく見開かれていた。
私は、にっこりと微笑んだ。
「少しだけ、あなたの故郷のお話、聞かせてもらえませんか?」
その日から、船の空気が微かに変わり始めた。
彼と心を通わせた私は、「じっとしているのは退屈なので、調理場を手伝わせてほしいのです」と頼み込んだ。少年は最初こそ戸惑っていたが、私の必死の頼みに根負けし、デニウスに内緒で船室の鍵を開け、調理場へと手引きしてくれた。
調理場は、もうもうと立ち上る湯気と、コック長の怒号が渦巻く男たちの戦場だった。肉の焼ける匂い、野菜の土の匂い、そして汗の匂いが混じり合っている。人手が足りず、コック長は常に鬼のような形相だ。
私はエプロンを借り、その戦場へためらいなく飛び込んだ。
土のついたジャガイモの山を無心で剥く。
底が見えない巨大な鍋を、重い櫂で焦げ付かぬようひたすらにかき混ぜる。
いつまでも終わらない皿の山を、凍える水で洗い続ける。
孤児院でこなしたその作業は、私の体が覚えていた。その手際の良さに、厳つい顔のコック長も驚き、やがてその口の端をわずかに緩ませた。
私は、ただ、ひたすらに彼らを助ける。
そして賄いの時間。湯気の立つスープをすすりながら、私は彼らの輪に加わった。妻からの手紙の話。息子の自慢話。故郷の祭りの思い出。彼らの言葉の一つ一つに、私はただ静かに耳を傾けた。
いつしか船員たちは、私を「攫われてきた、可哀想だが芯の強い不思議な子供」として見るようになっていた。私の周りにはいつも誰かがいて、粗末だが温かいスープを分けてくれたり、故郷の面白い話をしてくれたりする。
デニウスとその側近たちが知らない水面下で、船乗りたちの荒んでささくれていた心は、確かに癒されていく。
剣も魔法も持たない。
けれど、共に汗を流し、一杯のスープを分かち合う温もりは、この鉄の密室で男たちの凍てついていた心を溶かしてゆくには十分だった。