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第141話:『囚われの女神と黒鉄の船』


ポルト・アウレオの喧騒が嘘のように遠ざかる。

夜の路地裏を、疾風のごとく駆け抜ける六つの影。先頭を行く狂戦士バルドルの肩には、ぐったりとした小さな獲物――リナが担がれている。彼の後ろをデニウスが音もなく続き、残る部下が周囲を固める。その動きには一切の無駄がなく、冷徹に任務を遂行するプロフェッショナルのそれだった。


「――第七倉庫だ」


デニウスの低い声が、湿った夜気に溶ける。

港の最も奥まった場所に打ち捨てられた倉庫。その裏手の桟橋に、一艘の小舟が月明かりを浴びて静かに揺れていた。船首で点滅する青い灯が、霧の中でぼんやりと滲む。それが合図だった。


彼らは音もなく舟に乗り込み、夜の海を滑るように沖へと向かう。港の無数の灯りが次第に遠ざかり、やがて星屑のように小さくなって消えた。


水平線だけが広がる暗闇の沖合。

そこに、青い点滅する光を残して全ての灯りを消した一隻の大型船が、巨大な鯨のように息を潜めていた。

デニウス・ラウルが率いる黒鉄の船、『海燕シー・スワロー』。


小舟が近づくと、船の側面から縄梯子がするすると下ろされる。バルドルはリナを担いだまま、獣のような膂力で器用に甲板へと登っていく。


「……ご苦労だった」


甲板で彼らを迎えたデニウスの声には、感情の色がない。彼は船長に向き直ると、もはや紳士的な商人の仮面を捨て去り、冷徹な指揮官の顔で矢継ぎ早に命じた。

「直ちに錨を上げろ。聖王国の手前にある補給港、『サンタ・ルチア』へ向かう。説明は後だ。全速力でこの海域を離脱しろ」


デニウスはバルドルに、リナを船底の一室へ運ぶよう顎で示す。

そこは牢獄ではなかった。むしろ高貴な客人のための、手入れの行き届いた清潔な客室だ。上質なリネンのかかったベッド。小さな書き物机。丸窓からは、月の光が銀の筋となって差し込んでいる。


バルドルがリナをベッドにそっと寝かせると、デニウスは控えていた船員を呼びつけた。先の戦で占領した領地から無理やり徴用された男だ。その瞳には、怯えが滲んでいる。


「いいか」デニウスは静かに、しかし有無を言わせぬ響きで命じる。「このお方は、我々の最も大切な賓客だ。船旅の間、決して粗相のないようお仕えしろ」

そして、男の肩に手を置き、その瞳の奥を覗き込む。

「……もし、この方の髪一本でも損なうことがあれば、どうなるか。……分かるな?」

その双眸に宿るのは、狂信者のごとき恐ろしい光。船員は青ざめた顔で、声もなく何度も頷いた。


◇◆◇


デニウスが艦橋で船長と航路の打ち合わせを始めて間もなく、先ほどの船員が駆け込んできた。


「デニウス様! お、お客様が……! 目を覚まされました……!」


彼は踵を返し、再び船底の客室へ向かう。

その足取りは、先ほどまでの冷徹さが嘘のように、どこか焦りを帯びていた。


囚われの女神との、最初の対話が始まろうとしていた。


◇◆◇


意識がゆっくりと浮上する。

最初に感じたのは、肌を撫でる潮の匂いと、身体を預ける規則正しい揺れ。そして鼻腔をくすぐる、古い木の香り。

重い瞼をこじ開けると、そこは綺麗に整えられては居るが狭く薄暗い船室だった。丸窓の向こうには、どこまでも続く紺碧の海が広がっている。


(……やられた)


喫茶での記憶が、鈍い痛みと共に蘇る。

完全に囚われたのだ。

扉に手をかけるが、外から掛けられた錠がガチャン、と冷たい音を立てるだけだった。


やがて扉が開き、あの男――デニウスが姿を現す。

その顔から商人の仮面は剥がれ落ち、目的を遂げた工作員の冷徹さと、その奥に隠しきれない深い苦悩を湛えた男の素顔が覗いていた。


「……お目覚めかな」

ひどく掠れた声が、静かな船室に落ちる。

「我々と共に来ていただく。……わが故郷へ」

「なぜ?」

私の問いに、彼は初めてその冷徹な仮面の下に、痛切な感情を滲ませた。


絞り出すような、か細い声が静寂を破った。


「……故郷に、病に伏せる少女がおります」


彼の唇は血の気を失い、微かに震えている。

その瞳は深く落ち窪み、奥の方で、消えかかった熾火(おきび)のような光が揺らめいていた。

それは深い絶望の色であり、同時に、最後の望みを託す祈りの色でもあった。


「私にとっては……もう、妹も同然の、大切な存在なのです」

一度言葉を切ると、彼は固く握りしめた拳にぐっと力を込めた。


「イリアーヌも……癒やしの力を持っている。……いえ、持っていた、と過去形で言うべきでしょう」

彼の声に、抑えきれない怒りと悲しみが滲む。

「彼女の力は! 我が国の王の病を和らげるために……! 彼女自身は、日に日に衰弱していく一方なのです……!」

懇願が、悲痛な叫びとなって部屋の空気を震わせる。

その目が、まるで焼きごてのように私を射抜いた。

「どうか! あの娘を救っていただきたい! そして願わくば、我が王も……! あなた様のその大いなるお力で……!」

すがるような言葉と共に、彼はゆっくりと姿勢を低くする。

「……ご協力いただけるのなら、褒美は思いのままに。お望みのものは、全て差し上げましょう」

静かだが、拒絶を許さない響きがそこにはあった。

「ですから、それまでは。どうか……ここで、穏やかにお過ごしください」


彼はただの悪党ではない。だが、だからといってこの非道が許されるはずもない。

私は感情を押し殺し、冷たく言い放った。

「……分かったわ。大人しくしておくから、もうここには来ないで。あなたの顔は見たくない」


従順なふりをして、反撃の機会を窺う。

絶望などしない。思考を切り替える。

この船という密室こそが、私の新たな戦場なのだから。



↓【ネタバレ全開】リナちゃんとの漫才や、今回の改稿の裏話はこちらで!

『【あとがき集】天翼の軍師様は作者に物申したいようです』


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― 新着の感想 ―
最強勇者と腹黒最凶が聖王国殴り込みかな。 ちゃんと(作者が)策を立てる時間が欲しいね。 リゼットどうするかって話もあるし いくらでも待ちますので体調にあわせてね
無理は禁物ですよ〜! お大事にしてください!
 輝夜さん、こんにちは。 「ようこそ、最前線の地獄(職場)へ。 私、リナ8歳です 第141話:『囚われの女神と黒鉄の船』」拝読致しました。  こっちも結構改稿されてますね。でも、前半部分だけかな? …
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