第136話:『黄金の港に沈む陽』
陽光を弾いてきらめく海。潮の香りと人々の活気が満ちる市場。
黄金の港町ポルト・アウレオでの二日目は、昨日にも増して鮮やかな色彩に満ちていた。
魚市場では、水揚げされたばかりの銀鱗が網の上で命の最後の輝きを放ち、子供たちは見たこともないカニや貝殻を覗き込んでは、宝石でも見つけたかのように目を輝かせている。
「わあ、大きい!」
「リナお姉ちゃん! これ、動いてるよ!」
その無邪気な歓声に、日に焼けた肌に深い皺を刻んだ屈強な漁師たちも、豪快な笑い声を響かせながら魚を一匹おまけしてくれたりする。
昼食は、レオ兄ちゃんの計らいでデニウスさんが招待してくれた、港の海鮮食堂だった。
立ち上る湯気から磯の香りがするスープをスプーンで掬いながら、レオ兄ちゃんはどこか誇らしげに私のことを話している。
「リナはすごいんだ! いろんな本が読めるし、計算だって俺よりずっと速いんだぜ?」
「ああ。俺がこうして商会で働けているのも、昔リナに帳簿の付け方を教えてもらったおかげなんだ」
そこまで言って、彼はふと不思議そうに首を傾げた。
「……そういえばリナ。お前、なんであんなに色々なことを知っていたんだ?」
「兄ちゃん、それはもういいって」
私は照れ隠しに熱いスープを啜る。「本に色々書いてあっただけだよ。今の兄ちゃんがあるのは、兄ちゃんが頑張ったからじゃない」
「……皆さん、孤児院のご出身とか。……その孤児院が素晴らしい教育をされているのですね」
デニウスさんは感心したように相槌を打つ。その穏やかな笑顔の裏で、彼の瞳の奥に宿る色が何を考えているのか、私にはまだ読めなかった。
食事の後、レオ兄ちゃんの勤める商会を見学させてもらった。異国から届いた珍しい香辛料の匂いや、色鮮やかな織物の数々に子供たちはまた大はしゃぎだ。
その喧騒の中、デニウスさんがそっとレオ兄ちゃんに耳打ちするのが見えた。
「……ああ、そうだ。今晩、湾岸地区で小さなお祭りがあるらしい。……もしよろしければ、私がご案内しますが」
◇◆◇
その頃。
街の裏路地にある安宿の一室で、女は窓枠に肘をつき、眼下を流れる人々を見下ろしていた。
リナたちがレオの商会から出てくる。その周囲に、明らかに一般人ではない気配が複数、影のように紛れ込んでいるのを彼女の目は正確に捉えていた。
(……帝国の犬か。思ったより警護が固い。無策で望めば、確保は失敗するわね)
◇◆◇
「……日中は来るなと言ったはずだが」
音もなく現れたリゼットに、デニウスは眉をひそめた。
「作戦を変更するわ」
リゼットはデニウスの言葉を無視し、きっぱりと告げる。
「ターゲットの警護が予想以上に固い。あの子、本当に何かを隠しているようね」
彼女は冷たい声で計画を紡ぐ。
「夕刻、湾岸地区で陽動を仕掛ける。あなたが子供たちを祭りに誘いなさい。ターゲットがついて来ても、来なくても、構わない」
「来た場合は、騒乱に紛れて攫う。……来なければ、護衛はあの無口な保父と数人まで減るでしょう。バルドルたちがいれば十分よ」
彼女の計画は、冷徹で合理的だった。
「陽動と情報攪乱は私が受け持つ。……夕刻、日が落ち始める頃に開始でいいわね?」
デニウスは無言で頷いた。
「……船は沖に待機させている。いつでも出られるよう準備させろ」
「了解。第七倉庫の裏に渡り用の小舟を用意しておく。青い光が目印よ。……質問は?」
「……ない」
二人の間に、それ以上言葉はなかった。ただ、冷たい共犯者の空気が、埃っぽい部屋に澱んでいた。
◇◆◇
夕刻。空が茜色に染まり始める頃、デニウスさんは約束通り私たちの宿屋へとやってきた。
「さあ、お祭りが始まりますよ。私がご案内しましょう」
その紳士的な誘いに、トムとアンナは「行くー!」と飛び跳ねて喜ぶ。シスター・カリンとレオ兄ちゃんが、微笑みながら慌ててその後に続いた。
だが、私が一歩踏み出そうとした、その時。
すっ、とゲッコーさんが私の前に影のように立ちはだかった。
「……リナ様」
人々の喧騒を縫って、彼の低い声が私の耳元に届く。
「……この街の空気が、どうも浮ついている。祭りのせいかもしれませんが、念のため、人混みは避けるべきかと。……どうか、ご辞退ください」
プロとしての静かだが鋭い警告に、私は頷くしかなかった。
「……あ……。私、少し疲れちゃったから、ここで休んでるね! みんな、行ってらっしゃーい!」
私は精一杯の笑顔で手を振った。
こうして、私たちは二手に分かれた。
その瞬間を。
近くの建物の屋根の上から、リゼットが見下ろしていた。
「……分かれたか。まあ、想定内ね」
彼女は懐から取り出した小さな煙玉を指先で弄びながら、唇の端を微かに吊り上げた。
「――バルドル。湾岸から火の手と爆音が上がったら、決行よ。……準備なさい」
黄金の港に、悪意の狼煙が、静かに上がろうとしていた。