第12.5話:『軍師の悪意と兵士の憎悪』
作戦『鳥もち地獄と屈辱の遊戯』。
獣脂がはぜ、パチパチと音を立てる執務天幕の中、その禍々しい名が記された指示書から、まだ新しいインクの匂いが立ち上っていた。
揺らめくランプの光が、集められた男たちの武骨な横顔に深い影を落とす。いずれもグレイグが選抜した、百戦錬磨の部隊長たちだ。日に焼けた肌に刻まれた無数の傷跡が、彼らの戦歴を雄弁に物語っている。だが今、その鋼のような男たちの瞳に宿るのは忠誠ではない。腹の底でマグマのように煮え滾る憎悪と、目の前の輿に向けられた、隠しようもない疑念の色だった。
張り詰めた空気を破ったのは、顔に大きな刀傷を持つ隊長だった。喉の奥から押し出すような、低く、重い声が響く。
「……軍師殿。作戦内容は、理解いたしました」
一拍の沈黙が、続く言葉の重さを予感させた。
「ですが、一つ。どうしても腑に落ちん。なぜ、あの『剣聖』を殺さぬのです。ヤツは我らの仲間を……数えきれぬ同胞を、虫けらのように屠ってきた男だ! 罠にかけ、動きを封じたのなら、そこで息の根を止めるのが、死んでいった者たちへの弔いというものでしょう!」
その言葉は、天幕に満ちた火薬に火をつけた。
「そうだ! ヤツは我らの仇だ!」
「首を刎ね、帝都の門に晒せ! それが奴への報いだ!」
男たちの唸り声が渦を巻き、汗と鉄の匂いが混じった殺気が、まるで密度を増したかのように肌を刺す。燃え盛る憎悪の視線が、私の乗る豪奢な輿の、赤い帳へと突き刺さった。
「静まれ!」
グレイグが槍の石突を乾いた土の床に鋭く打ち鳴らす。硬い音が響き、熱狂がわずかに怯んだ。彼は厳しい眼差しで部下たちをぐるりと見渡し、私に向き直る。
「これは軍師殿の作戦。……お聞かせ願おうか、軍師殿。なぜ、奴を生かすのだ?」
全ての音が消え、全ての視線が再び帳に注がれる。
私は変声機を通し、わざと氷のように冷たく、無機質で、どこか絹を裂くような声を、その静寂に響かせた。
「そなたたちの気持ちは分かる。だが……それでは、猪武者と何も変わりません」
「なっ……!」
何人かがカッと顔を赤らめ、剣の柄を握りしめた指が白くなる。
私は構わず、帳の隙間から音もなく白い手袋に包まれた人差し指を一本、すっと立ててみせた。
「あの『剣聖』ハヤトをここで殺そうとするのは、活躍の場をくれてやるだけです」
私の声には、一片の温度もなかった。
「第一に、『無様に敗北した英雄』は、敵軍の内に不協和音を掻き立てる最高の火種とできる。『あのような男に、もはや国の命運は任せられぬ』と、必ずや不満分子が現れる。奴を殺せば『悲劇の英雄』として伝説になり、敵の結束を固めるだけ。生かしておくからこそ、奴は敵にとって腐臭を放つ『お荷物』となるのです」
熱に浮かされていた隊長たちの顔から、血の気が引いていくのが空気で分かった。私の冷たい論理が、彼らの憎悪の炎に冷水を浴びせかけていく。
「第二に、敵の最強戦力を、一組にして無力化するため」
私はそこで言葉を切り、男たちが息を呑むのを待った。
「『剣聖』と『聖女』は、常に共に在る。奴が個人的な復讐心で戦略とは無関係に動けば、『聖女』もそれに付き合わざるを得なくなる。結果、あの強力無比な支援能力を、効果の薄い局地戦で浪費させられる。最強の矛と最強の盾を、揃って無駄働きさせるのですよ。これほど効率の良い策が、他にあると?」
それでも、最初に口火を切った刀傷の隊長が、最後の抵抗のように食い下がった。その瞳には、諦めきれない光が揺れている。
「……しかし、軍師殿。罠にかかった奴を、遠巻きに矢で……」
「愚かな。隣にはあの『聖女』がいる。聞き及んでいる力は、『幾千の矢を退け、たちどころに致命傷を癒す』だったか? そして剣聖は『一人で一軍に匹敵する』。そんなお伽話のような者たちが、自らの死が迫る中、みすみす倒されてくれると本気で信じているのですか? 下手に手を出して『奇跡』を見せつけられれば、敵の士気を無駄に高めるだけ。それに……」
私はそこで、再び言葉を切った。
(……それに、目の前で、はっきりと『あの人を殺せ』なんて……言えるわけ、ないじゃない……。殺さずに勝てるなら、絶対に、その方がいい……)
もちろん、そんな本音は微塵も匂わせない。
「……よいか。我々の目的は、憎い敵を殺して溜飲を下げることではない。この戦争に、確実に勝利すること。そのためには、時に仇を生かすという選択も必要となる。この策は、そのための最も合理的で、最も効果的な一手。……これでもまだ、不満のある者は?」
その言葉が、男たちの最後の熱を奪った。
天幕は墓場のような静寂に包まれ、ランプの炎が虚しく揺れる音だけが聞こえる。
やがて、鎧の擦れる音を立てて、まず一人。
そして、それに続くように、また一人と、男たちは膝を折り、兜の頭を深く垂れていく。
憎悪に染まっていた彼らの顔から感情の色は消え、ただ作戦を遂行する兵士の、冷徹な覚悟だけが浮かんでいた。
「……申し訳ありませんでした、軍師殿」
男たちの承服の言葉に、私は静かに頷く気配だけを帳越しに伝えた。
「……よろしい。この策がなれば、王国の英雄は味方に疎まれ、嘲笑される『道化』となろう」
「直ちに準備にかかれ」
その命令を最後に、私は再び沈黙する。
誰にも見えない帳の奥で、張り詰めていた糸がぷつりと切れる。
私は深く、長い息を吐き出し、ようやく全身の力を抜いた。
そして、兵士たちが退室し、天幕に一人になった所で、自分に再確認するように、ぽつりと呟いた。
「……こんなめんどくさい敵を正面から叩くなんて、被害が増えるだけだもんね。せっかく不協和音があるんだから、勝手に内輪もめして無力化してもらった方が、こっちとしては楽だし、犠牲も出ないし……。……まあ、彼らの理屈じゃない怒りや憎しみも、分かってるんだけどさ……。でも、これも戦争だもんね。みんなの命を守るためだ。……我慢してもらうしかない、よね」