第112話:『商人の狂喜と、番頭の頭痛』
帝国皇宮の重々しい門が、地響きのような音を立てて背後で閉ざされる。
マルコ・ポラーニの足は、まるで雲の上を歩いているかのように覚束なかった。石畳の感触すらなく、待たせていた自らの豪華な馬車に、文字通り転がり込む。
「――支部へ! 全速力でだ!」
御者にそれだけ叫ぶと、背中を強くシートに叩きつけた。
馬車が帝都の石畳を噛み、ガタガタと内臓を揺さぶる。
だが、そんな不快感など、今のマルコにはどうでもよかった。
彼の頭の中は、先ほどの軍師との対話で灼熱の鉄のように沸騰していた。
新しい国を創る。世界初の、自由都市。その初代総督に、この自分が。
(……あり得ない。こんな途方もない話が、この世にあって、たまるか……!)
しかし、あの仮面の奥で揺らめいていた瞳は、本気だった。
あれは夢物語を語る者の目ではない。未来をその手で掴み、創造する者の目だ。
「は……はは……ははははははは!」
狭い馬車の中、マルコは一人、狂ったように笑い出した。興奮で全身の血が逆流し、心臓が肋骨を内側から叩き続ける。
◇◆◇
マルコの商会、帝都支部。
その前に、馬車が嘶きと共に乱暴に急停車する。
転がり出てきたマルコは、入り口を固める護衛の胸ぐらを掴む勢いで矢継ぎ早に命じた。
「いいか! 今からこの建物に誰も入れるな! アリの子一匹通すなよ!」
返事も待たず、彼は支部の奥へと駆け込んでいく。
執務室で山のような羊皮紙に埋もれていたピエトロ・ロレンツォは、嵐のように飛び込んできた商会長のただ事ではない様子に、驚いて椅子を蹴るように立ち上がった。
「お、お帰りなさいませ、マルコ様。……して、王宮での話は」
その言葉を遮り、マルコはピエトロの両肩を骨が軋むほど強く掴んだ。
「ピエトロ!」
「は、はいっ!」
「……見たぞ、俺は……! 本物を……!」
「ど、どうなさったのですか、マルコ様! 一体、何が……!?」
ピエトロは商会長の異様な剣幕に、本気で恐怖を覚えた。その目は完全に血走り、獣のように荒い息を繰り返している。
「……奥の、機密室へ行く」
マルコはそれだけ言うと、ピエトロを半ば引きずるようにして部屋の奥へと向かう。分厚い鉄の扉が重い音を立てて閉まり、幾重にも鍵がかけられる音が、静まり返った室内に響いた。
「……ピエトロ。……まずは、落ち着け」
「……失礼ながら、マルコ様。落ち着くべきは、貴方の方かと」
ピエトロは冷静に言い返し、商会長の顔を覗き込んだ。
「……その血走った目は、一体どうなさったのですか」
「……軍師に会った……」
「軍師……? まさか……」
「ああ! あの『天翼の軍師』だ! ……とんでもなく美しく、そして、とんでもない迫力だったぞ……!」
「あ、ああ、さようでございますか……」
ピエトロが呆れかけた、その時だった。
「――それでな、ピエトロ! 俺たちで、国を創るんだ!」
「……はい?」
「帝国と王国の間に、新しい国を創るんだよ!」
「…………」
ピエトロは、黙って立ち上がった。
そして、興奮するマルコの肩に、諭すように優しく手を置く。
「……マルコ様。少々お待ちを。今、冷たい水を持ってまいります。……その間に、少し頭を整理なされては……」
「俺は冷静だぞ!」
「ええ、ええ。重々承知しております。……まあ、とりあえず、そこの椅子にお座りください」
ピエトロが部屋を出ようと扉に手をかけると、背後からマルコの焦れた声が飛んだ。
「……時間がないんだぞ、ピエトロ! すぐに戻ってこい!」
「……はい、はい」
扉を閉めたピエトロは、重いため息をついた。
(……これは、相当だ。……俺が冷静でいなければ、商会ごと沈むかもしれん……)
◇◆◇
数分後。
冷たい水を立て続けに三杯飲み干し、ようやく人語を話せるまでに落ち着いたマルコは、ピエトロに事の一部始終を語り始めた。
『中立経済特区』構想。
その、あまりに壮大で、常識から逸脱した計画。
「…………」
話を聞き終えたピエトロは、しばらく言葉もなく固まっていた。
だが、彼の脳もまた、冷徹な商人としてのものだった。指先で机を叩きながら、その頭脳は瞬時に計画のリスクと、その奥に眠る途方もないリターンを弾き出していく。
「……その話、真実なのですか、マルコ様……?」
「ああ、真実だ! そして、この草案作成に与えられた時間は、たったの五日!」
マルコは再び椅子から跳ね上がった。
「やるぞ、ピエトロ! あの軍師の度肝を抜く、最高の青写真を創り上げてやるんだ!」
「…………」
(……万が一、騙されていても、草案を作るだけなら損失はそれほどない。……だが、もしこれが本当なら……。……これは……とんでもないことになるぞ……)
ピエトロの心にも、小さな、しかし確かな興奮の炎が灯り始めていた。
「……承知いたしました、マルコ様」
彼は覚悟を決めた。
「直ちに我らで起案を進めます。同時に、本国から腕利きの設計士と法律家を至急呼び寄せましょう。急がせれば、意見を交わす時間も一日か二日は取れるはずです」
「おう! それでこそ俺の右腕だ!」
二人の男の視線が、熱を帯びて交差する。
それは、ヴェネツィアの、そしてこの大陸の未来を大きく塗り替える、小さな、しかし確かな始まりの瞬間だった。
その夜、帝都支部の執務室の灯りは、朝陽が昇るまで消えることはなかった。
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【あとがき集】天翼の軍師様は作者に物申したいようです
話題目の後ろの数字は、対応する話数です。本編を先にお読みくださいませ。