第111話:『孤高の英雄と、賢明なる傭兵たち』
新生アルカディア王国の王都は、希望の光に満ち溢れていた。
新王アルフォンスの誕生、そして帝国との長きにわたる戦争の終結。石畳の街角では吟遊詩人が新しい時代の到来を高らかに歌い上げ、人々は未来への明るい話題に頬を輝かせている。誰もが、東の果てにくすぶる小さな火種のことなど、とうに忘れかけていた。
◇◆◇
その頃、東のロベール伯爵領。
埃っぽく、澱んだ空気が満ちた一室で、二人の男が業を煮やしていた。ロベール伯爵と、バルガス侯爵。
「……まだ来んのか!」
バルガス侯爵が、苛立たしげに樫のテーブルを拳で叩く。重い音が響き、地図の上に置かれた駒がカタカタと震えた。
彼らは待っていた。王都から派遣される討伐軍を。それを迎え撃ち、勝利の鬨を上げ、その勢いのまま王都へ雪崩れ込む。そうすれば、日和見を決め込む貴族どもも再び我らの下に馳せ参じるはずだ、と。
だが、待てど暮らせど王都は動かない。
まるで、自分たちの存在など忘れ去られたかのように。
無視されること。それは、斬り捨てられることよりも遥かに大きな屈辱だった。
「……もう待てん!」
ロベール伯爵が顔を上げた。その目は血走り、決断の色を宿している。「こちらから打って出る! 王都を目指し進軍するのだ! そうすれば、あの若造の王も動かざるを得まい!」
ヴェネツィアから借り受けた莫大な金で雇った一万の傭兵部隊。鬨の声が上がり、ついに王都への進軍が開始された。
◇◆◇
「――やっと来たか!」
その一報は、退屈しきっていたハヤトの魂に火を点けた。監視小屋を飛び出す彼の瞳には、久しぶりにヒーローとしての輝きが宿っている。愛馬に飛び乗り、土煙を上げて駆ける。目指すは、反乱軍が進軍してくる広大な平原。ただ一人、彼はそこへ向かった。
やがて地平線の向こうに、巨大な土煙が見えた。地響きと共に近づいてくる、一万の軍勢。鈍く光る無数の槍先、揺れる軍旗。その圧倒的な威圧感の前に、ハヤトは馬を降り、たった一人で仁王立ちになった。
吹き抜ける風が、彼の黒いマントを獣のように激しくはためかせる。
彼は深呼吸を一つ。そして、練習に練習を重ねた決め台詞を、腹の底から叫んだ。
「――貴様らの好きにはさせん! この平原を通りたければ、まずはこの俺を倒していくがいい! 我こそは正義の使者! 『黒曜の疾風』!」
ごぉぉぉぉぉぉっ!
その日、運悪く平原には凄まじい強風が吹き荒れていた。彼の渾身の口上は、誰の耳にも届くことなく、ただ轟々と唸る風の音に掻き消されていった。
だが、ハヤトはノリノリだった。
満足げに頷き、鞘から剣を抜き放つ。傭兵たちの先頭部隊が「うおおお!」と野蛮な雄叫びを上げ、彼に向かって突撃を開始した。
その瞬間、世界の時間が歪んだ。
先頭を駆ける傭兵の目に映ったのは、信じがたい光景だった。黒いマントの男が踏み込んだ瞬間、その足元の地面が蜘蛛の巣状に砕け散る。次いで、空気を切り裂く甲高い音と共に、男の姿がブレて――消えた。
「なっ――!?」
声にならない驚愕が傭兵たちの喉を塞ぐ。
直後、暴力的な衝撃音が平原に連続して炸裂した。それは剣戟の音ではない。鈍い打撃音と、分厚い鉄の鎧が凄まじい力で歪む甲高い悲鳴だ。
突撃してきた傭兵たちの先頭十数名が、まるで糸の切れた人形のように宙を舞った。ある者は胸の鎧に巨大な拳で殴られたような深い凹みを刻まれ、肺の空気をすべて吐き出して吹き飛ぶ。またある者は、剣の腹で兜を横殴りにされ、凄まじい金属音と共に意識を断ち切られた。彼らは何が起きたのかを理解する暇もなく、意識のない鉄の塊となって地面に叩きつけられた。
静寂が、戦場を支配した。
風の音だけが、無様に転がる負傷者の呻き声を遠くへ運んでいく。
いつの間にか元の位置に戻っていたハヤトが、血振りをするように剣を払う。その刀身には、一滴の血も付着していない。
「――ふっ。峰打ちだ。死にはすまい」
彼の呟きは、静まり返った平原に不気味なほどはっきりと響き渡った。
「前に出たければ、それなりの覚悟をしてから出てくるがいい」
彼はそう言い残すと、再び風に溶けるようにその場を去っていった。
残されたのは、一万の軍勢。だが、そこに先程までの勢いは微塵もなかった。誰もが武器を握りしめたまま凍りつき、目の前で起きた「現象」を理解しようと喘いでいる。
あれは、戦いではない。災害だ。人の形をした、歩く厄災だ。
恐怖が、じわりと最前線から伝播していく。武器を取り落とす者。へたりと腰を抜かす者。無意識に後ずさる者。彼らの間で、言葉にならない視線が交わされた。
(……見たか)
(……ああ。あれは『戦う』相手じゃない。『遭遇してはいけない』何かだ)
(……冗談じゃねぇ。金で命は買えねえぞ)
彼らは、プロの傭兵だ。死地を潜り抜けてきた自負がある。だが、彼らが知る「死」は、もっと理解できる形をしていた。あれは違う。理不尽なまでの力の奔流。その前に立てば、ただ無力化されるだけだ。
◇◆◇
「――なぜ進まん! 先陣は何をやっておるのだ!」
後方で指揮を執るロベール伯爵が、癇癪を起して怒鳴る。「先頭を往く者には、さらに褒賞を追加するぞ!」
その言葉に、傭兵たちは動いた。
「「「うおおおおおお!」」」
彼らは雄叫びを上げ、右へ左へと駆け回る。死の境界線――ハヤトという災害が吹き荒れた場所――の手前で急停止し、槍を振り回し、剣を空振りし、必死に「戦っているフリ」をする。その動きは恐怖に駆られた滑稽な舞踏のようだった。
その日、ハヤトの仕事は、時折調子に乗って境界線を越えてしまう十数人を、もてあそぶように殴り飛ばすだけの簡単なものとなった。
こうして、ハヤトには退屈だがヒーローとしての自尊心が満たされる日々が、そしてロベール伯爵とバルガス侯爵には、金だけが面白いように消えていく悪夢の日々が、約束された。
それは、意味的には非常に大きく、しかし死者が一人も出ない、実に奇妙な一戦となったのである。
◇◆◇
その夜。王都にあるマリアの執務室。
彼女の手元に置かれた『囁きの小箱』が、ぶぶっ、と短く振動した。相手は東の前線にいるハヤトからだ。
『――聞いたか、マリア! 俺様の大活躍!』
通信機から響くのは、興奮を隠しきれないハヤトの弾んだ声だった。
『たった一人で一万の軍勢を食い止めてやったぜ! まさに伝説の始まりだ! 俺こそが真の正義のヒーロー、『黒曜の疾風』だ! はーっはっはっは!』
あまりに子供じみた報告に、隣で聞いていたグランとアルフォンスは思わず顔を見合わせる。二人の頬は明らかに引きつっていた。
だが、マリアは違った。
彼女は完璧な聖女の声色で、小箱に向かって語りかける。その声は蜂蜜のように甘く、心からの賞賛に満ち溢れていた。
「――まあ! すごいわ、ハヤト! さすがは私たちの『黒曜の疾風』! あなたがいないと、この国は駄目になってしまうわ! 本当に、頼りにしてるのよ!」
『お、おう! そうだろ、そうだろ!』
「ええ、もちろんよ! ……だから、これからもお願いね? 私たちの国の平和を守る、孤高のヒーローさん?」
『任せとけ!』
マリアは満足げに通信を切ると、ふぅ、と小さく息をついた。そして、顔を引きつらせているグランとアルフォンスに、にっこりと微笑みかける。
「……さ、こちらはこれでよしとして。本題に入りましょうか」
そのあまりに手慣れた手綱捌きに、グランとアルフォンスは乾いた笑みを浮かべることしかできない。
(……聖女様……いや、マリア殿は、決して怒らせないようにしよう……)
二人の心は、この瞬間、固く一つになった。
こうして王国の東の国境は、一人の単純なヒーローと、一人のしたたかな聖女によって、当面の平和が保たれることになったのである。